台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

「台湾引き揚げ」が静かなブームに

戦争体験の階層化を越えられるか

 

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戦後、台湾にいた沖縄関係者が引き揚げに関する話し合いに使っていた建物。屋根の一部が崩れている
=2017年3月2日午前、台北市南昌路一段

 

 観光客もよく訪れる台北市内の南門市場の裏手に、屋根の一部が崩れ落ちた2階建ての廃屋がある。自動車はほとんどすれ違えない細い路地に挟まれ、そこから歩いていけるところにある中正紀念堂の壮大なスケールとの落差がはなはだしい。アジア太平洋戦争が終結した後、この建物は台湾にいた沖縄出身者が県人会の事務所代わりに使い、沖縄への引き揚げに向けて話し合いを持った場所である。沖縄の新聞やテレビは、沖縄戦終結したとされる6月23日の「慰霊の日」に合わせて、アジア太平洋戦争を「沖縄」という切り口から振り返るのが通例だが、2018年はこの「台湾引き揚げ」がひとつのブームとなっている。終戦から73年が過ぎて、ようやく注目されたことになるが、そこには戦争体験の階層化とでも呼びたくなるような作用が働いているのではないか。

 

 「琉球新報」は5月1日付で台湾引き揚げを報じた。台湾引き揚げの研究で学位を取得した中村春菜氏(33)の論文を軸にまとめられた「『沖縄籍民』の台湾引揚げ 証言・資料集」(赤嶺守編)を取り上げたのである。6月に入ると、「沖縄タイムス」も追いかけ、テレビでは琉球朝日放送(QAB)琉球放送RBCが相次いでいずれも夕方のニュースで台湾引き揚げを特集した。

 潮は引かない。「沖縄タイムス」は7月6日から、台湾引き揚げをテーマにした連載企画「波濤 台湾引き揚げ」を掲載し、主に宮古地方出身者らが犠牲になった引き揚げ船の遭難事件「栄丸事件」をめぐる人々の思いや、いわゆる「湾生」(植民地台湾で生まれた人)のエピソードなどを取り上げている。

 

屋良朝苗

 

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中城村久場にある「戦後引揚者上陸の碑」=2012年1月17日夕

 

 台湾引き揚げとは、植民地台湾で暮らした日本人たちが終戦後、台湾を離れて日本へ戻っていくことを示す。戻っていこうとする目的地が米軍統治下に置かれていたという点で、沖縄への引き揚げは本土への引き揚げと異なっていた。あらゆる資源が決定的に破壊され、多くの人命を失った後、戦後の沖縄社会のなかで、台湾引揚者が相当な役割を果たしたという点にも留意しておこう。たとえば、公選の行政主席を務めた後、本土復帰後は県知事を2期務めた屋良朝苗も、台湾から引き揚げてきた人物である。

 

 戦争を「動」と「静」に分けるならば、沖縄の地上戦は「動」だ。戦争が行われていることが説明抜きに目で見てはっきり分かる。これに対して「静」とは、戦争が引き起こす社会の混乱が飢えやマラリアなどの疫病、教育の欠乏などをもたらす状態に相当する。えてして、説明抜きでは理解することが難しい。たとえば、ガリガリに痩せた子どもの写真1枚だけ見ても、背景が分からなければ、それが戦争によるものかは判然としない。台湾引き揚げも「静」に属する。

 

 そもそも、凄惨な地上戦やそれに続く米軍統治、現在の米軍基地問題と向き合っている沖縄のメディア(より正確には沖縄本島のメディア)は、どうしても「動」への取材を優先することになる。ところが、この夏は「静」のほうがフォーカスされているのだから、どんな新事実が掘り起こされるのか期待も膨らもうというものである。

 

「沖縄の戦争体験地上戦の体験」

 

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尖閣列島遭難事件の慰霊祭

=2010年7月3日午後、石垣市新川

 

 ただ、これまでまとまった形で台湾引き揚げに目配りしてこなかったため、意図せざる結果として「沖縄の戦争体験≒地上戦の体験」という図式を固定化させてしまったといえるのではないか。台湾から命からがら引き揚げてきた人が「地上戦のような体験はしていないから」と証言をためらったり、沖縄本島の人たちが「台湾はあまり攻撃を受けなかったから、戦争被害はそれほどでもない」という思い込みを語ったりするのは、この固定化と関係があるだろう。 

taiwanokinawa.hatenablog.com

 筆者が台湾引き揚げに関心を持ったのは1995年である。勤務先の新聞社で戦後50年の連載企画を担当することになり、1945年に生まれた人たちの、その生まれたときの様子を取材しようと試みたところ、疎開先の台湾で生まれたという人と出会ったのがきっかけだ。

 疎開

 台湾へ?

 調べてみると、石垣市が1980年代に発刊した市民の戦争体験証言集で、すでに台湾への出稼ぎや疎開の体験が収録されていた。八重山は、台湾へ向かっていた疎開船が銃撃されて尖閣諸島に漂着した尖閣列島遭難事件を経験してもいる。台湾への渡航やその引き揚げに関する情報に比較的アクセスしやすい環境にあるといえる。

 しかしそれでも、台湾疎開の取材を続けていくうちに、八重山の戦争体験にも、固定化された図式らしきものがあることが分かってきた。

 

「戦争マラリア」の影で

 

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台湾への疎開と戦後の引き揚げを体験した石堂ミツさん(中)

やはり体験者の大嵩浩さん(左)、徳山静子さん(右)と

=2009年10月9日午前、石垣市字石垣

 

 石垣島から台湾に疎開し、戦後に引き揚げてきた経験を持つ故・石堂ミツさんから、こんなことを聞かされた。ある大学の学生たちが八重山の戦争マラリアについて調査に訪れ、石堂さんは同世代のほかの人たちと一緒にインタビューに応じていた。熱心に耳を傾ける学生たちに、台湾へ疎開した人たちのマラリアについて話そうとすると、学生は「今回の目的は、その話ではないのです」と断ったという。戦争マラリア八重山ではメジャーな戦争被害。その陰で、台湾に関する戦争体験は語られる機会が失われていたのである。

okiron.net

 ちなみに、戦争マラリアも「静」の戦争被害である。

 もともとマラリア生息地帯だった八重山では、人々はそこを避けて暮らしてきた。ところが、アジア太平洋戦争の末期、石垣島波照間島などの人たちはマラリアの有病地帯に退避させられ、3000人以上が亡くなった。この戦争マラリアが社会的に関心を集めたのは、戦後50年となった1995年に、有病地帯への退避が軍命であったかをめぐる論争に一つの終止符を打つ形で政治決着が図られたことによる。政府は戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)による個人補償は行わない代わりに、3億円規模の慰藉事業を実施して八重山平和祈念館沖縄県平和祈念資料館分館)の整備などを行った。

 台湾引き揚げも戦争マラリアも、予備知識を仕入れてからでなければ理解しづらいのである。

 ここまで考えて、もしかして、と思いつく。

 

ランドマークになるかも

 

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台湾沖縄同郷会連合会が使用していた南風原朝保の診療所兼住居跡

=2018年6月18日正午すぎ、台北市南昌路一段

 

 もしかすると、南門市場の裏手にある旧県人会事務所は「静」の戦争を象徴するひとつのランドマークになるかもしれない。この建物のことを正確に表現すると、南風原朝保という沖縄出身の医師が開業していた診療所兼住居を台湾沖縄同郷会連合会という組織が使用していた場所。10日に先島を暴風域に巻き込みながら台湾北方を西へ抜けた台風8号の影響で、廃屋がばらばらになってしまったのではないかと気になったが、13日午後に見にいってみると、もともと傷みの激しい裏手側は「あばら家」の呼び名がいよいよふさわしくなってきた。それがかえって時代を感じさせ、かつての台湾引き揚げをイメージするうえでなにがしかの手助けをしてくれるかもしれない。