台南の駅
番子田(ばんしでん)駅は日本が台湾を統治していた時に台南にあった駅の名前で、今は「隆田」という名前になっている。
先月下旬、台南から北上していた私は台湾新幹線ではなく在来線に乗っていて、ぼんやりと車窓を眺めていたのだが、たまたま隆田に着いたところで動画を撮りたくなり、デジカメを取り出したのだった。大変良い天気で、ガラス窓は外の熱気を遮ってくれているのに、さすがに台南は暑いんだなと思いながら。
「番子田」の地名は沖縄から台湾に疎開した人の口から聞かされることがあるし、日本が台湾を統治していたころ、白保英行さんが働いていたことのある駅でもある。
「八重山在住台湾出身者の身分処遇について」
石垣島など八重山に暮らす台湾系の人たちは、今ではほとんどが日本国籍を持っているが、これは、自ずからそうであったというものではない。1970年代前半を中心に、台湾人自身があちこちに働きかけるとともに、不安定な身分にあった台湾人の処遇改善に関心を寄せる人たちがさまざまに活動したという経緯があって今があるわけである。
この、さまざまに活動した人物の一人、白保英行さんが2015年11月23日、心不全のために亡くなった。享年百歳。
白保さんは1966年9月から4期16年間にわたって石垣市議会議員を務め、1970年4月には「八重山在住台湾出身者の身分処遇について」という決議を提案した人物として知られる。この文書は4月13日付で琉球列島高等弁務官のランバートに送られており、一連の文書は沖縄県公文書館で閲覧することができる。
沖縄復帰と日台断交
八重山に住む台湾人がまとまった人数で日本国籍を取得するのは、実際には1973年を待たなければならず、この年から3年間に178人が日本国籍を取得している。
この当時、八重山に住んでいた台湾人が置かれた状況はこうだ。
(1)日本は台湾と断交し、中華人民共和国と国交を樹立する。
(2)沖縄は日本に復帰する。
(3)その結果、八重山の台湾人が暮らす場所は、母国と断交した日本の領域となる。
178人の国籍取得は、八重山の台湾人たちが直面していた不安定な状況を一定の形で改善するものとなった。
直談判
白保さんが提案した「身分処遇」の決議が以上の国籍取得につながったかは不明だが、八重山の台湾人が近い将来直面することになる困難を予測し、沖縄の米軍当局に伝えたことは有意味であったと考えられる。
私は2003年、白保さんからインタビューし、八重山の台湾人の処遇に対する取り組みを尋ねたことがある。すると、白保さんは、台湾で政府当局者に会い、八重山の台湾人に日本国籍を与えるよう直談判したことがあるのだとおっしゃったのである。正確には、日本国籍を取得するうえで前提となる、中華民国からの国籍離脱証明を与えるよう要請したというのだ。
1916年1月生まれの白保さんは、1930年に日本統治下の台湾に渡り、鉄道の仕事などに従事した。植民地台湾を知り、戦後は八重山に住む台湾人の暮らしに精通していたことから、最近も台湾や香港のテレビ局などから取材を受けていた。しかし、これから先は、直接お話をおうかがいすることはできない。
八重山と台湾の関係史を語るうえで、欠くべからざる大きな存在を失った。
合掌。