転職
石垣市新川出身の嵩本(たけもと)さん一家は1939年6月、基隆から台北に移る。安意(あんい)さんが1歳半のときのことである。父、正宜(せいぎ)さんは13年近く勤めた徳丸質屋を辞め、台北で郵便保険の募集をすることになったのだ。
3階建ての建物の1階を借りたところが新たな住まいで、台北駅北側にあった。住所は上奎府(かみけふ)町2丁目5番地である。同じ建物には、ほかにも八重山出身者がいて、共同の炊事場をみんなで使うなどしていた。
とぅばらーま
正宜さんは、酒を飲んで帰ってくるとき、上奎府町の自宅に向かって歩きながら、「とぅばらーま」を歌うことがあったという。
「とぅばらーま」は八重山を代表する叙情歌。戦後の石垣島では旧暦の8月13日に大会が開かれるのが恒例となり、年齢を問わず、幅広い層に人気がある。
もっとも、正宜さんのそれは、妻の伸さんに言わせれば「虎の鳴き声」だったそうなのだが、歌詞に「バンチャ・ヌ・クヤマ・ヨ・シカイイチドー」と即興を利かせたりなどするものだから、伸さんも歌うのをやめさせることはなかった。
※「バンチャ・ヌ・クヤマ・ヨ・シカイイチドー」とは、石垣市字新川の方言で「うちのクヤマは世界一」の意味、「クヤマ」は伸さんの童名)
庶民の街
上奎府町とその北隣にある建成(けんせい)町などは、植民地台北のなかで沖縄出身者が比較的多く暮らしていたエリアである。
今、この地域を歩いてみると、魅力的な路地にあふれている。食べ物の店は目移りするほどそろっているし、新鮮な魚介類や果物、野菜が売られているのを見ると、このまま買ってかえって自分で料理をしてみたい衝動に駆られる。
庶民の暮らしが丸見えだ。
写真などはいくら撮っても撮りきれそうにない。それだのに、ふとした隙に、年間1億9000万人が乗り降りする台北駅が軒の向こうにちらりと見えたりする。
なんてアンバランスなんだろう。
こういうのが面白くて、台北の街歩きはやめられなくなるのだ。
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※この記事は嵩本正宜(1995)「蟻の詩」(ミル出版,石垣市)、国永美智子ら(2012)「石垣島で台湾を歩く」(沖縄タイムス社、那覇市)を参照しています。