ネコ村へのアクセス
ネコ村のある侯硐(猴硐、ほうとん)へ行く時、八堵(はっと)という駅から行ってみたことがある。日本の江ノ電との交流で話題になった平溪線の一日乗車券を、八堵では買うことができ、私はそれを買ってからまずネコ村に向かい、そこから平溪線に足を踏み入れたのだった。
平溪線は、豊富な水量を誇る十分瀑布(滝)や願い事を書いた簡易式の気球を打ち上げる「天灯」の体験などで知られ、台北から近いこともあって今や大変な人気だ。加えて、ネコ。
こういうことが好きな人たちには八堵は馴染みのない場所ではないが、かつてはまったく異なる顔をしていた。
接続ポイント
「基隆から2つ台北寄りにある駅」といってしまえば、いまいち存在感は薄くなってしまうのだが、平溪線の沿線に居並ぶような炭坑から掘りだされた石炭が通過していき、また、工業や水産業で栄える蘇澳と台湾の大都市との間を行き来するさまざまなこの駅を通っていったのだと言えば、ポジション的には悪くない。
台北地方と宜蘭地方を結ぶ鉄道に宜蘭線(98.8キロ)があるが、日本が台湾を統治していた1924年12月にこの鉄路が開通したとき、八堵は基隆と台北、そのまたさらに先にある地域との間を結ぶ縦貫線との接続ポイントとなった。交通の要衝である。台湾の西海岸にずらりと並んだ大消費地と、東海岸の生産拠点をつなぐ節目となったのである。
蘇澳には南方澳という漁港があり、ここはかつて、石垣島や与那国島など八重山・沖縄からの漁船が発着し、便乗して台湾に上陸した人が八堵を経由して台北や基隆などの大都市へ向かったのである。台湾からの引き揚げでは、このルートを逆にたどり、人々は台湾の大都市から蘇澳へ向かい、南方澳から船で八重山・沖縄へ戻っていった。その途中に八堵がある。
ギャップ
1927年に台北で発行された本に、八堵に関する記述を見付けた。
「僅かに、数歩の耕地を有する一寒村に過ぎないが、附近には、石炭の産出があるのみならず、宜蘭線の分岐駅として、交通上重要の地位を占めている」
必要としている人はたくさんいるのだが、派手さがないためにあまり注目されないといったところだろうか。
駅の待合室には日本統治期に建てられたというかつての木造駅舎の絵が掛かっていて、なかなか風情があるのだが、現在の駅舎はなんだか普通である。
八堵が果たしてきた役割は少なくない。何の変哲もない駅ではあるが、そうであればこそ、縁の下の力持ちとしての魅力は高まる。見た目とのギャップがなかなかいいのだ。
※やまと新聞台湾支局編纂「台湾週遊概要」(台北、1927年)25ページを参照した。