着物で物々交換
嵩本安意(たけもと・あんい)さんの母、伸さん=石垣市字新川出身=が結婚前、台北の歯科医に奉公していたことがあり、石垣島へ戻るときに何枚もの着物をもらったことはこの連載の(1)で書いた。
疎開先の天母ではこの着物が役立った。
伸さんは疎開先の建物の周りを耕し、野菜をつくったりもしていたが、食べ物は足りず、安意さんを連れて近くの農家へ買い出しにでることがあった。そのときに不穏な噂を耳にした。
「日本はもうすぐ負ける」
台湾銀行券では食べ物を売ってもらえないこともあった。そういうとき、伸さんは着物との物々交換で芋や米などを手に入れるようになっていった。
台北で奉公した経験が、困窮しがちな疎開生活を支えることになったわけである。
野山で食べ物を取る
安意さんは弟と一緒にイナゴを取ったり、川へエビを取りにいったりした。野山で遊んでいるわけではなく、食べるために取るのである。
戦火も迫っていた。
「台車」と呼ばれていた簡易なトロッコで天母から荷物を取りに向かっていたとき、グラマンが接近してきたことがある。運転していた人はすぐにトロッコを停止させ、乗っていた人たちは両脇に広がっている田んぼの畦に身を伏せた。安意さんは建成国民学校で「攻撃を受けて伏せをするときは、親指で耳を、残りの指で目を押さえるように」と指導されており、その通りに身をかがめた。爆発の衝撃で目が飛び出したり、耳が聞こえなくなったりするからというのがその理由なのだが、このときは機銃が田んぼに撃ち込まれ、ぴちゃぴちゃと水の跳ねる音がした。もうやられると思った。
空襲に遭遇
天母は高台に位置しており、台北市内が焼けているのが見えることがあった。
台北市内に出かけたときに空襲に遭遇したことも。その時は、やはり台北に住んでいた親戚に誘われて川端町で釣りをしていた。空襲が始まり、安意さんらはそばにあった竹やぶに逃げ込んだが、その近くに爆弾が次々に落ちてきた。けがはしなかったが、天母に戻る途中には、台湾総督府が焼けていたり、道路に弾痕の大きな穴があいていたりした。安意さんは「それからもう、『台北も危ない』と言ってですね、台中に引っ越したというのが記憶にありますね」と話す。
安意さんら天母に疎開していた郵便職員の家族は、次の疎開地へ向かうことになった。
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※この記事は嵩本正宜(1995)「蟻の詩」(ミル出版,石垣市)を参照しています。