台中へ移動
第二の疎開先となった台中へは汽車で行った。上奎府(かみけふ)町の自宅から天母へ移動するときは嵩本伸さん=石垣市字新川出身=が荷物を頭に載せて運んだりもした(連載5参照)が、台中へ行くとなるとそうはいかない。伸さんは台北市内の軍隊にいた弟に荷造りを頼み、引っ越しの準備をした。
台中へ向かう汽車のなかはギューギュー詰めで、床に座っている人もいた。
伸さんや長男の安意(あんい)さん、それに弟妹たちは台中に着くと、ほかの疎開者とともに工場に移動してそこで一晩過ごし、翌日、地元の台湾の人たちに引き取られる形で疎開先へ向かった。
酒工場?
この工場とはどこか。
台中駅の近くには当時、台湾総督府専売局台中酒工場があり、その場所は現在、アートなど創造的な活動を行うエリア「台中文化創意産業園区」にリノベーションされている。私が昨年1月に足を運んだ時は、動物をモチーフにしたカラフルな作品で知られる台湾の芸術家、洪易(ホン・イ)の展示会が開催中だった。
日本統治期に建てられた倉庫などの施設も多数残っており、安意さんにその写真を見てもらうと、「こんな感じだったかもしれない」と食い入るように見つめていた。
今はWBC予選も
疎開先は台中州大屯郡北屯庄の農村である。戦後は台中市北屯区となり、現在も水稲や野菜、花卉などの農業生産が行われているが、2万人収容の台中インターコンチネンタル野球場(台中市洲際棒球場)があることでも知られ、2013年3月にはワールドベースボールクラシック(WBC)の1次リーグが行われている。
安意さんは戦後、1969年と1984年に北屯を再訪しており、両親の正宜(せいぎ)さんと伸さんも同行している。安意さんと伸さんにとっては疎開生活で世話になった現地の人たちと再会するための旅であり、1944年から大陸に赴任していた正宜さんにとっては家族が疎開生活を送った場所を確かめる旅である。
カエルが逃げた
この時に撮影した写真には、水路の脇にたたずむ安意さんの姿が写っている。
この水路にはエピソードある。
疎開当時、辺りには食用になるカエルがいて、安意さんは15、6歳ぐらいの少年に誘われて捕りにいったことがある。
夜。
カーバイドで明かりを灯し、安意さんは少年の後に続いた。カエルを見付けると、鉄の枠に網を張った道具で上から押さえつけるようにしてカエルを捕える。獲物は一晩で30匹か40匹ほどになり、2人で半分ずつ持ち帰った。
カエルは捕まえた後、釜の中に一晩閉じ込めておく。調理の前にカエルに糞をさせておくのである。
その晩はアクシデントが起きた。
「弟が、6歳か7歳だったかな、夜中に小便で起きたときに、カエルの入った釜をひっくり返したことがありました」
カエルは次々に逃げていき、すぐ目の前を流れていた水路に飛び込んでいった。
翌日になれば、さばいて内臓を取り出し、甘辛く煮込んで食べるはずだったカエルは、きれいにいなくなった。
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※この記事は嵩本正宜(1995)「蟻の詩」(ミル出版,石垣市)を参照しています。