台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

台湾石垣-行きつ戻りつ 嵩本安意さん(最終回)

第1回はこちら。

万一のために

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 「非常袋」と書かれた長さ40センチほどの袋が残っている。嵩本(たけもと)伸さん=石垣市字新川出身=はこの袋を台北市の上奎府(かみけふ)町から天母、台中と持ち歩き、長男の安意(あんい)さんに「お母さんが死んでも、これがあれば帰れる」と言って聞かせていたという。

 このなかには、名前や住所、本籍、血液型などを確認できる書類や、保険や貯金などの証書類、配給や種痘済みの証明書などが入れてあった。

 伸さんは、夫の正宜(せいぎ)さんが中国大陸に派遣されたままになっていることから、脚気を病む自らの身に万一のことがあった場合に子どもたちをどう生き延びさせるのか考えていたようである。

住所を何度も

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 台中の北屯に疎開していた時のことを安意さんが回想する。

「竹の下に家族で座って、体に付いたシラミを取るんですよ。ぼくが母のシラミを取っていると、『お母さんはひょっとすると命が短いかもしれないから、死んだときには、弟たちや妹たちを八重山郡石垣島新川205番地に連れていくんだよ』と言うんですよ。新川205番地って何度も言わせる」

 お母さんが死んだらどうしたらいいのだろうか。安意さんは子どもながらに考えたが、帰り方が思い付かない。心細さに泣いたりもした。

「玉砕?」

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 疎開していた集落には、ラジオを持っている家が一軒あり、村の人たちはそこで終戦を知った。「沖縄は玉砕した」とも伝わっており、村の台湾人たちは、嵩本さん一家が帰る場所にもやはり何も残されていないと考えていた。石垣島は壊滅的な状態にはなっていなかったが、「沖縄は玉砕した。あんたたちは帰るな」「土地は与える。みんなここでおりなさい」と、台湾に残るよう勧めてきた。

 伸さんは「島の様子を見て、何もなくなっていたら、また来ます」と村の人たちに告げ、子どもたちと石垣島へ引き揚げることにした。

 伸さんや安意さんは汽車で台北まで戻ってくると、台北市の建成(けんせい)町に住んでいた知人宅に身を寄せた。その後、知人や親戚など合わせて3、40人で船を雇い、基隆の小島、社寮(しゃりょう)島から引き揚げた。伸さんは石垣島が「玉砕」していた場合に備えて、「何もないのなら、持って帰らないといけない」と、台湾から皿やさじなどの食器類、檜の飯台、みそがめ、蒸篭などを持って帰ってきた。

 石垣島は壊滅的な打撃からは逃れていた。台湾からの品々は戦後の暮らしに役立った。

(おわり)