台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

林百貨がリニューアル(2)

八重山関係者が暮らす

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 筆者が林百貨を意識するようになったのは、日本が台湾を統治していたころ、この近くに八重山関係者が暮らしていたということが大きい。

 林百貨のすぐ南側の十字路には石垣島出身の産婦人科医、玻座真里芳(はざま・りほう)がハザマ医院を開いており、林百貨北側の目抜き通りを西へ行けば、のちに八重山群島政府知事となる安里積千代(あさと・つみちよ)が自宅を兼ねた弁護士事務所を開いていた。その関係者によると、林百貨の北側を通る中正路は、日本統治下では「銀座通り」と呼ばれていたとのことで、つまりそれは目抜き通りであることを示すわけだが、その性格は今も受け継がれているということなのだろう。

新旧の「日本」が同居

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 だから、林百貨の上から街の様子を確かめてみたかったのだが、筆者が到着したときにはほとんど日は暮れかかり、エレベーターで最上階の5階まで上がってみたころにはほとんど夜になっていた。アジア太平洋戦争末期の1945年3月1日に起きた空襲で被害を受けた跡がそのままの状態になっており、説明パネルが添えられていたりする。弾痕が残る外壁の内側には日本風の飲食店があったりもして、新旧の日本が同居しているようである。

 5階はさらにそこからもう1つ上まで行けるようなっていて、屋上に当たる場所には小さな雑貨店があって、ポールに林百貨の旗を翻らせている。

 林百貨の完成を待たず亡くなった所有者の林方一を悼んで建立された稲荷神社の跡も残っていた。筆者が参観していたときには偶然、日本人らしき家族連れがやってきて、鳥居の跡の前に並んで拝礼をし始めたりして、台湾人たちが記念撮影に興じている姿と比べると、コントラストがはっきりしているように思えた。

共通点

 林百貨の資料を読んでいて初めて知ったのは、設計に当たった石川出身の梅沢捨次郎なる人物はのちに台湾総督府専売局松山煙草工場(現在は松山文創園区)を担当したということ。松山煙草工場は沖縄から台湾に移民してきた人たちが働いているケースもあり、林百貨と同様に台湾と沖縄の関係を考えるうえで押さえておきたい施設であるだけに、同じ人物が建築に当たっていたということでさらに興味を掻きたてられた。

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