疎開先を転々
石垣島の中心市街地出身のUさん(1934年生)は、台湾に疎開した後、次々に疎開先を変えていったという経験の持ち主である。アジア太平洋戦争末期に、八重山など沖縄の各地に向けて行われた疎開では、最初に腰を落ち着けた疎開先から別の場所へ移る「2次疎開」が行われたケースは珍しくないが、Uさん一家の疎開先は4カ所に及び、最後にやってきたのが員林だった。
子どもが連絡係
Uさん一家は約石垣島から20家族ほどが乗り込んだ木造船で台湾に向かい、基隆に上陸するとすぐに台南に移動した。台南ではいったん寺に身を寄せた後、麻豆に移動した。ここからさらに別の場所に2次疎開し、その後、親戚を頼って台北と基隆に行き、家族は2カ所に分かれて暮らすことになった。Uさんは当時10歳ほどだったが、台北と基隆を行き来して家族間の連絡係を務めたという。「子どもなので(汽車の)運賃が安かったから(連絡係を任されたの)ではないか」とUさん。
戦火で員林へ
一家が員林に移るのはこの後のことである。
Uさんは「戦火が激しくなり、親せきの手にも負えなくなり、員林へ行くことになった」と振り返る。台湾は1945年5月31日に台北大空襲に見舞われるなど、戦況は悪化していった。