台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

その土地の人になるということ

三世

 英国に留学していたことのある同僚としゃべっていて、欧州にやってくる移民の話になった。曰く・・・

 一世は自分たちの国の文化や伝統を守ろうとする。

 二世は、一世の苦労を見ているし、一世(=親たち)からの期待が過大なほど強い。だから、自分の出自を否応なく意識させられる。

 三世は考え方がその土地のものになっており、一世との間では言葉が通じないこともある。

 ざっとこんな感じのことを話していた。

 石垣島台湾系の人たちと接していて、三世から「『あなたは台湾人なのだよ』と言われても、私にはよくわからないのです」というリアクションをされたことがあり、二世からはアイデンティティの悩みを聞かされたことがあるし、台湾語の話せる二世や三世のことをよく褒める一世の人がいることも知っている。

 だから、英国組の同僚が言うことはなんとなくすっと入ってきた。洋の東西を問わず、似たような現象が起こっているということなのであろう。三世まできてようやく、その土地の人になるということ。

「死人を土の下に埋めないうちは」

 それで思い出したのはガルシア・マルケスの『百年の孤独』。たまたま最近になって再読しはじめ、きのう偶然、ホセ・アルカディオ・ブレンディアが、移住に反対する妻、ウルスラにこんなことを言う場面があった。

 「死人を土の下に埋めないうちは、どこの土地の人間というわけにはいかんのだ」

鼓直訳、新潮社版26ページ)

 二世とか、三世とかとは言っていないけれども、人がそれなりに歳を取り、だれかに看取られるころには、孫がいてもおかしくはない。つまり、その土地に三世までがそろうということと同義なのではないか。

 八重山は移民の土地といっていい。台湾人だけでなく、戦後の開拓移民でやってきた人たちも今や普通に三世までなっている。だから、みんな八重山の人になったのだというのは乱暴だけれども、「石垣島の四カ字に代表されるような八重山人とはちょっと異なる八重山人」とでも呼びたくなるような人々が社会のなかでそれなりに存在感のあるポジションを得ようとしている、ということは言ってもいいように思う。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)