JRで熊本駅から10分かからないところに川尻という場所があり、私は2005年2月24日に足を運んでいる。延寿寺という天台宗のお寺が目的地である。この年は戦後60年の節目に当たり、私は終戦の年の1945年に生まれた人たちの取材をしていて、この寺に行き当たった。八重山上布で知られる石垣島の新垣幸子さんが生まれたのがこの寺で、1933年生まれのご住職から当時の様子をうかがうためにお邪魔したのであった。
延寿寺のある熊本市南区は、2016年4月14日夜の「平成28年熊本地震」で震度6弱の揺れを観測した場所である。延寿寺から歩いて10分のところにある川尻小学校は避難所に指定されており、きっと今、多くの人が地震発生から3日目の朝を迎えていることであろう。
終戦の年に生まれた人たち
たった一度しか訪れていない場所ではある。しかし、このときの取材が私のその後の取材活動を方向付けることになったと思うと、大切にしておかなければならない場所ともいえる。
1945年に生まれた人を取材することにしたのは、その出生の在り様から女性(=母親)や子ども(=生まれてきた赤ん坊)が戦争中にどのような状況に置かれるのかを描き出せるのではないかと思ったからである。主な取材先は、取材拠点のある石垣・八重山以外に、熊本、沖縄本島、そして台湾であった。人は自分が生まれたときの状況を自らの言葉として説明することはできないので、出生地に赴いて当時の様子を知る人たちから話をうかがうのである。(沖縄本島は、1945年に生まれた石垣・八重山出身者の転居先へ赴くために訪問した)
台湾へ
2005年2月の取材では、熊本の延寿寺を取材した後、福岡から台湾へ渡った。石垣・八重山の人たちのなかにはアジア太平洋戦争末期に台湾へ疎開した人が少なくない。このため、石垣・八重山出身の母親から1945年に台湾で生を受けたという人がいるわけである。
台湾については2003年に石垣・八重山に住む台湾系の人たちについてまとまった記事を書いていたので、多少の知識はあるつもりでいたが、台湾にいた石垣・八重山出身の人たちという逆のパターンを調べるとなると、随分と勝手が違った。1945年生まれの人たちに関する取材を消化不良なままで終えた私は、その後も台湾通いを続けることになり、台湾そのものにのめりこんでしまったり、石垣・八重山から台湾を訪ねるツアーの案内をしたりといった具合にはまっていくことになった。
私が台湾に向かうことになった出発点はいくつかあるが、熊本の延寿寺はそのうちの一つだと言っていい。
2005年2月24日はほぼ丸一日雨だった。取材を済ませてタクシーを拾うおうと、県道50号に出て待っていてもなかなか空車は来ず、寒さが身に染みた。ただ、瑞鷹酒造という酒造会社があり、その建物が熊本市が景観形成建造物に認定されている社屋の軒を借りることができたのはありがたかった。渋みの利いた木造の建物が立ち並ぶ通りも、雨がかえっていいくらいだったが、このたびの地震で何事もなければいいが。