台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

安里の土帝君

同じ場所を二度三度と

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 旅は、同じ場所を二度三度と訪ねるのが醍醐味だと思っている。「なんども同じ場所に行って、飽きないのか?」と言われることもある。確かに。同じ土地を訪ね、同じような場所を歩いて帰ってきてしまうことがないではない。ただ、こういうことをしているおかげで、その場所が変化していく様子を身に沁み込ませることができる。私自身が、その場所に沁み込んでいくと表現したほうが適当だろうか。沁み込み、もはや惰性になってしまったところで、その土地の在り様が本当に見えてくるということがあるではないかと思っている。

 その一方で、惰性が付いてはいけないのは、その場所を舞台にしてフィクションを創り上げようとする場合だ。私がフィクションを書く時には、よく見知った場所をあたかも「借景」のように取り込んでしまい、そこに想像上の人間関係を配置する。「想像上の人間関係」あるいは「想像上の人間」といっても、まったく完全に創作の人間関係や人間を作り出すという営みは、わたしには離れ業にしか見えず、こちらも実在の人物に憑依しつつ客観視しながら人物像や人間関係を生み出していくのだ。

 ということは、フィクションのために取材をする場合には、実在のその場所を、あるいは、実在のその人物を知りすぎてはいけないのかもしれない。分からない部分が広ければ広いほど、作り手の自由でもって創作できるレンジが広がるし、創作のレンジをいかに広げることができるかというところで作り手の力量は決まるのであろう。

どっぷりと浸かってはならない

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 那覇市安里にある金満宮の、その一角にうずくまる土帝君の祠は、私にとって、近づきたいのだけれどもどっぷりと浸かってはならない場所だった。「だった」という過去形にしてあるのは、すでに創作は終えているので、これから先は自分の体を沁み込ませていって構わない場所なのだということである。石垣島に住む台湾系の人たちは旧暦8月15日の中秋節に合わせて土地の神に祈願を行う「土地公祭」という神事を執り行っているのだが、「土地公」というこの土地神に興味を抱いたことから、八重山ではなく、沖縄本島にある「土帝君」の存在に私は興味を覚えた。フィクションを書こうとしていたときに、あらためて金満宮に行ってみようと思い立ったのは特別な動機があってのことではない。「そういえば、沖縄本島にも土地公みたいなのがあったな」と思い出させられただけのことである。だから、この程度の発想だったから、深く踏み込まずに土帝君を知り、創作を終えたら離れてしまっていた。

 作品を書き上げた後のお礼参りをしていなかったことに最近になって気付いた。それで久しぶりに行ってみたのは2016年3月30日のことである。では、その前に行ったのはいつだろうと思って調べてみたら、2014年3月31日。丸2年前ではなく、2年マイナス1日ぶりの再訪となったところが中途半端で心地よく、どっぷりと浸かる場所ではそもそもないのだなと再確認した。

インターフォン (タイムス文芸叢書)

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