台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

「日本時代の建物を修復したい」 沖縄漁民が暮らした港町の取り組み

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「新港教会会館(菅宮勝太郎宅)」(後方)の修復に取り組む劉炳熹牧師(右から2人目)。

右端は陳韋辰さん、左から2人目は森富美子さん

=2017年1月1日午前、台湾台東県成功鎮で松田良孝撮影

 

土地の歴史刻む二階屋

 台東県成功鎮(新港)で日本時代に建てられた木造2階建ての施設「新港教会会館(菅宮勝太郎宅)」を修復しようという取り組みを取材して感じたのは、人口の減少を食い止めたい、あるいは、経済的な基盤が弱まっていくなかでその土地に刻まれた歴史を伝えていきたいという地元の人たちの思いです。

www.okinawatimes.co.jp

 沖縄とかかわりが深いという土地柄ゆえに、以前から気になっていた街ですが、土地の歴史が継承されていかなければ、かつて沖縄の人たちがいたという記憶・記録も省みられなくなってしまうかもしれない。とてもではありませんが、施設の修復は他人事とは思えませんでした。

 施設の修復はプロテスタントの新港教会が進めています。竣工当時の写真が見つかっていないなど難題も抱えるなかでの取り組みです。

 

「若者に伝えたい」

 

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「新港教会会館(菅宮勝太郎宅)」の内部。資料館として公開されている

=2017年1月1日午前、台湾台東県成功鎮で松田良孝撮影

 

 劉炳熹(リウ・ビンシ)牧師(34)は「成功には仕事が少なく、若者たちはふるさとのことをあまり認識せずに出ていってしまう。修復を通じて成功のことを次の世代に伝えてきたい」と話していました。

 台東県成功戸政事務所によると、成功の人口は1981年の2万4070人がピークで、その後は年々減少しています。2015年には1万4652人となりました。水産業は近年、魚価の低迷や燃油の高騰、後継者不足などの問題を抱えており、水産業を主産業とする成功鎮も例外ではありません。

 

手掛かり、徐々に

 

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成功鎮(新港)の歴史を説明した「新港教会会館(菅宮勝太郎宅)」のパネル

=2017年1月1日午前、台湾台東県成功鎮で松田良孝撮影

 

 この施設が建てられたのは1932年で、これは日本が台湾を統治していた時期に当たります。台東県政府は2003年、「日本統治下に建てられた2階建ての木造建築が残っているのは珍しい」などの理由で歴史建築に指定しました。戦後は診療所として使われていましたが、休診後の1997年に教会側が購入し、現在は資料館になっています。

 県政府がホームページで公開している同施設の沿革によると、菅沼勝太郎は新港の官吏でした。菅沼の人物像などは分かっていませんが、日本統治期に新港で暮らしていた森富美子さん(83)大分県日出町=が菅沼の娘とみられる人物と小学校の同級生だったと証言するなど手掛かりはあり、修復を支援している自営業の陳韋辰(チェン・ウェイチェン)さん(47)は「この建物が建てられたころのことから一つ一つ歴史を明らかにしていきたい」と意気込んでいました。

(年齢は取材当時)
訂正:新港教会を「カトリック」と表記していましたが、プロテスタントの誤りでした。
2017年1月26日に訂正しました。