台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

『与那國台灣往来記』中文譯出版

体験と史資料で織り出す

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 台湾の聯經出版から拙著『与那国台湾往来記』(2014年/南山舎)の中国語版を出版していただきました。与那国島と台湾のかかわりという事象は、1997年に与那国町の町政施行50周年に合わせた取材に取り組んで以来のテーマですが、20年目にして台湾のみなさんに直接お伝えするツールを与えていただいたことになります。

 植民地期とその直後の台湾を経験した与那国出身者のみなさんからお話をうかがい、そのお一人おひとりの体験を織り上げるようにして台湾と与那国の間にある人々の往来の歴史をひとつのノンフィクションにまとめました。やはり中文訳を出していただいた『八重山の台湾人』(2004年/南山舎)と同様に、個人の体験を史資料やデータで補強していくという手法を踏襲しています。

 

 

台湾へ伝わる「与那国」

 もともとは「八重山毎日新聞」で2011年1月1日から12月30日まで掲載した連載企画『海で西へつながる どぅなんとぅ 台湾がたり』を修加筆したもので、南山舎やいま文化大賞の受賞作として南山舎石垣市から2013年9月に出版されました。

 

南山舎の月刊「やいま」は2017年7月号で拙著の中文版を紹介している

 

 インタビューをさせていただいた方はいずれもご高齢で、中文訳の出版をご報告することができなくなってしまった方も少なくありません。これは残念なことですが、敢えて別の視点に立ってみれば、与那国と台湾の間を往来した当事者たちは亡くなっても、今回の中文訳出版によって、台湾の人たちがこうした人びとの存在を知ることができるようになったことになります。

 今回の翻訳出版は、東アジア出版人会議において、南山舎と聯經出版の間でマッチングが行われた結果と聞いています。

 日本語版もまだ手に取っていないという方はぜひご一読ください。与那国島はもちろんのこと、国境と称される地域とどう向き合うべきかを考えるうえで参考になるはずです。

 

台湾の出版社より

 本書を担当してくださった聯經出版の編集者、陳逸達さんが中文訳出版に合わせてFBに投稿をアップなさっています。

 

 以下に拙訳を掲載します。

 実のところ、戦後の与那国は困窮からいち早く抜け出している。在沖米軍は大量の物資を抱え、台湾には輸出できるほどの農産物があった。台湾と与那国を結ぶ海を熟知した人びとは、こうした物資ですぐに商売を始めた。海を渡って行うこの手の商売はそれまでの半世紀は当たり前に行われてきたのだが、戦後、国境線が引かれたことによって密貿易とみなさてしまった。遠く離れたところで行われる政治というものは、そこに住む普通の人びとには理解しがたいものなのである。

 当時を知る台湾人の春生は言う。

 「国が離れてるから『密貿易』と言うてるでしょ?」

 もともと人やモノが往来していたというのに、突然国境線を引いて、「これは密貿易です」と取り締まるのは理不尽だと言いたいのである。

 「あんなの密貿易じゃない。『やれやれ、運べ』って」。

 朝鮮戦争が始まるまでの間、与那国島の「密貿易」は隆盛を極め、東京や大阪からも商人が札束を携えてやってきた。島には80件を超す飲み屋が並ぶ。当時のことを記した専門書には「当時、ニワトリは道に落ちた米粒をついばむことはなかった」とある。ニワトリでさえ飽き飽きするほどの大量の物資・・・

(以上拙訳)