ぞうきん1枚に四苦八苦
復帰前の沖縄では、台湾人労働者が農業分野の人手不足を補っていたことがある。こうした出稼ぎ労働者を送り出した地域のひとつ、台湾中部の嘉義(ジアイ)県大林(ダリン)鎮を訪れ、南大東島で働いた経験を持つ徐宝珠(シュ・バオチュ)さん(81)にインタビューすると、言葉がうまく通じず、雇い主からぞうきん1枚をもらうのにも四苦八苦した経験を聞くことができた。
2人に1人は台湾人
県内では復帰前、製糖業やパイン産業などの労働不足を補うため、台湾の労働者が活躍。「琉球製糖株式会社四十周年記念誌」によると、製糖工場の作業やキビ刈りでは復帰前の6年間に台湾人労働者延べ5892人が働いていた。「南大東村誌」によると、この6年間に南大東島では台湾から延べ3371人の労働者が働きに訪れ、島内で製糖工場やキビ刈りなどに従事する労働者の2人に1人は台湾人だった。
徐さんは1970年ごろ、姑や夫の勧めで南大東島へ2度出稼ぎにいった。近所に住んでいた斡旋人の手配で沖縄へ向かっている。
当時2歳から13歳まで男女4人の子どもがいた徐さん。「出稼ぎに行きたくなった」が、2歳年上の夫には上の兄たちがいて、徐さん夫婦に土地がなく、生活が苦しかったために沖縄行きを決めた。台湾での暮らしを「貧しい。お金がない」と振り返る。
「ドル」も要因
出稼ぎで得た金は農協への借金の返済や教育費などに充て、貯金はできなかった。
沖縄でドルが流通していたことも出稼ぎを促す要因だったようだ。2006年から大林地区で沖縄への出稼ぎを調査している南華大学の邱琡雯(チウ・シュウエン)教授(社会学)のインタビューで、徐さんは「沖縄の通貨がドルから日本円になると、夫は私を沖縄へ行かせなくなった」と述べている。
大林鎮はキビやパインなどを主要作物とする農業地帯。徐さんが暮らす上林(シャンリン)地区も広々とした畑が広がる。徐さんは若いころからキビ刈りをしており、沖縄行きの前に「訓練を受ける必要はなかった」が、刈り取りや除草、施肥などの作業に疲れ、出稼ぎ中は、夜はぐっすりと眠ったという。
「キモノ ダメ」
南大東での生活は自炊。雇い主の農家の近くにあった建物でほかの台湾人労働者とともに寝起きした。徐さんは日本統治下の台湾で生まれたが、学校に通えなかったこともあって日本語は片言。わずかに知っていた日本語をつなぎ合わせて「キモノ ダメ」と言い、ぞうきんをもらったことも。使えなくなった衣服をほどいてぞうきんにすることから、「だめになった着物がほしい」と伝えたわけである。
台湾への土産には、島内の雑貨店で買った日本製の毛糸をいくつも持ち帰り、近所の人に頼んでセーターなどを編んでもらった。幼かった二女のための赤いセーターと自分用の藍色のセーターは今も残っていて、インタビューの合間に着てみせてくれた。
「記録残したい」
復帰前の沖縄で出稼ぎ労働を経験した台湾人は年々減少しており、地域づくりの活動に取り組む上林社区発展協会の孫家榕(スン・ジアロン)前理事長は「若者たちは、自分たちの村に出稼ぎ労働者がいたことを知らない。現在の上林には沖縄との交流もない。出稼ぎ労働の記録を残すことで、その現代的な意義を考えることができるのではないか」と話し、インタビューの録画やドキュメンタリーフィルムの制作などの方法を模索している。