台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

基隆・和平島で街歩き

 

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台湾基隆の八尺門にある阿根納造船所跡
=2019年3月9日午前、松田良孝撮影

 

 2019年3月9日午前10時から台湾島に隣接する基隆市の和平島を歩くツアーがあり、参加してきました。和平島は、沖縄出身の漁師がたくさん暮らしていたエリアで、沖縄台湾関係を考えるうえでキーポイントといってもいい場所なのですが、私が自分で取材するとなると、「沖縄」という視角に偏りがち。もっとトータルに、バランスよく和平島を歩きたいと思っていたところ、アートなどで基隆の街づくりに取り組んでいるグループ「星濱山 正濱港町藝術共創町」が街歩きのツアーを開くというので、申し込んでみたというわけです。ガイドは和平島住民の藍秀鳳さん。本業はギョーザ屋さんだそうです。参加者はわたしを含めて5人で、基本的にオール中国語で、台湾語もまずまず混じってくるという、台湾的にはごく普通の空間で2時間勉強してきました。気温は20度に達せず、ずっと雨というコンディションのなかで2時間余り。体は冷え切ってしまいましたが、収穫は多。聞き取れた単語を手掛かりに文献やネットで情報を探し出しながら報告記を書きます。

 

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ガイドを務めた藍秀鳳さん。本業はギョーザ屋さん

=2019年3月9日、和平橋で松田良孝撮影

 

石炭から台湾の歴史を歩く

 

 日本統治期の1917年に造られ、九份や金瓜石からの石炭や銅を積み出すための埠頭として使われた阿根納造船所跡。戦後の1966年からは阿根納造船所(Argener Shipyard)として使われていたことからこの名があります。

 聞き取れた単語で重要だったのは「1876年」という年号。手元にある「台湾史小事典 第三版」(2016年/中国書店)をめくってみると、この年について

「八月二十四日、基隆炭鉱が機械により採掘を開始」

とありました。基隆の石炭をめぐる重要な画期だったわけだから、基隆港の戦略的な地位も上昇したことになります。日本の台湾統治や琉球処分につながる牡丹社事件が発生してから2年後というタイミングです。

 藍さんの説明には、戦争という言葉が数多く使われ、英国や中国、フランスという国名が登場。戦争の原因がすべて石炭だったというわけではないけれども、当時の石炭は今の石油と同じように戦略物資。基隆は、十分な水深がある天然の良港だったから港町として発展したわけだけれども、汽船に必要な燃料=石炭を供給する環境が整っていた点も併せて語られるべきだということ。

 

 

 


漁港倉庫がパイン会社の倉庫に

 

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日本統治期に漁港の倉庫だった建物。のちにパイン会社の倉庫として使われた

=2019年3月9日、基隆市和平島で松田良孝撮影

 

 コンクリートが剥がれ落ちたところからレンガ積みがのぞき、いかにも古そうな表情をしている建物。台湾島にある正浜漁港側と向き合っている和平島の岸壁に建っています。藍さんの説明によると、日本統治期に漁港の倉庫として建てられた後、日本統治期が終わると、台鳳(台湾パイン、台鳳股份有限公司倉庫となったとのことです。

 

 

木の家

 

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生活の痕跡は失われているものの、木造の家屋が残っているというだけで驚くべきこと

=2019年3月9日、基隆市和平島、松田良孝撮影

 

 日本統治期の建物は、この岸壁に近い和一路という通りにも残っています。官公庁の施設や官舎などの場合にはそれなりのボリュームがあり、見てすぐに「これはもしや日本時代の?」と足を止めたくなるのですが、この建物は地元の人に教わらないと素通りしてしまいそうな存在感。玄関の引き戸には郵便物の転送先を記した貼り紙がしてあり、生活の痕跡は感じられませんでした。

 

「米」と「気」

 

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社寮福徳宮の烏亀=2019年3月9日、基隆社寮島で松田良孝撮影

 

 米の袋をいくつも組み合わせて亀の形にした供え物「烏亀」を見ることができたのも収穫でした。土地公廟の社尾福徳宮と社寮福徳宮でのことです。

 なぜ米を供えるのか。

 今回のツアーを主催した星濱山共創工作室の担当者にあらためてうかがってみました。すると、

(1)米はもともと裕福な家のものなので、供え物として最適。

(2)「米」という文字は、「気」の旧字体「氣」の主要な成分。元気であることを指す「氣色好」や、死を意味する「斷氣」など、「氣」は人の生死と深くかかわる言葉。

(3)米は大地から生み出されるもの。米を祈願の対象とすることで実りに感謝することになる。

(4)米で龍や亀の姿を表現することは、無病息災につながる

 ということなのだそうです。とりわけ(3)については、漢字が人々の暮らしから生み出されたことにあらためて思い至りました。

 

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社尾福徳宮の烏亀=2019年3月9日、基隆社寮島で松田良孝撮影

  

 なぜ今の時期に供えてあるのかは、宿題にしておきます。