みんなで墓参り
沖縄や奄美には旧暦1月16日に墓参りをする「十六日祭」という風習があります。石垣島などの八重山や、そのお隣の宮古などでは、墓参りの代名詞といってもいいほど盛んに行われており、学校が休みになったりします。私が勤務していた「八重山毎日新聞」(本社沖縄県石垣市)もその日は休業日で、その翌日は休刊日となります。ほとんどのお墓は、豪華な食事を供える人たちでいっぱいになり、知人同士で墓を訪ね合ったりします。三線の音が聞こえてくることもあります。
清明節と十六日祭
八重山に移民してきた台湾系の人たちのなかには、この風習に倣って同じように墓参りをする人がいます。清明節に代わって十六日祭をする人もいれば、清明祭も十六日祭りもどちらもやるという人もいます。
私はこれまで、この光景を「台湾系の人たちが沖縄独特の風習を自らのものとしていくもの」と受け止めていました。台湾系の人たちが「沖縄化」した結果、十六日祭をやるようになった。と。台湾系の人たちの間でも、十六日祭は八重山のものであって、台湾のものではないという受け止めが普通です。
なぜ旧1月16日なのか
しかし、そもそも、なんで旧暦1月16日に墓参りをするのかという疑問を突き詰めてみたところ、十六日祭が沖縄独特の風習と言い切れないということが分かってきました。
八重山の十六日祭について、その起源説は三通り、または二通りに分けることができます。
まず、ひとつ目。
遊女が、1月16日に亡くなった親しい人の墓参りをしたところ、これが広く祖霊の供養に転じたという説。
もうひとつは、尚敬王の時代に那覇の潟原で競馬があり、その帰途に墓参りをしたことを由来とするもの。
そして、この2つの説が組み合わさったものとして、次のようなものがあります。すなわち、1月16日に競馬が行われ、大勢の人出があったが、その黒山の人だかりを意に介することなく、亡き夫の一周忌に合わせて墓参りをする女がいた、その姿に触発されて競馬帰りに墓参りをする者がみられ、16日祭として定着したというのだそうです。
そして、最後の説。これは「唐の元宵祭灯籠祭りの変化ではないか」とするものです。1957年2月、石垣島で発行されていた新聞「海南時報」に掲載された「旧十六日祭起源考」という全3回の投稿に示された説で、「唐の元宵祭りは、正月十四、十五、十六と三日間おこなわれる灯籠祭である。初日の十四日は“鬼灯”と唱えて幽魂に供え、十五日は“神灯”と唱えて神々に供え、十六日は“人灯”と唱えて、諸人の灯籠覧に供えられたものである」としています。この祭祀が尚真王の時代に沖縄にもたらされた後、沖縄で姓氏が生まれ、これによって同族や一門の意識が強まり、家ごとに墓を建てて祖先を供養することになっていったというものです。
1972年に著された宮城文著「八重山生活誌」も元宵節由来説の立場を取っており、「那覇市久米に移住した中国人たちが中国の元尚祭にならって正月十五日に飾燈篭を作って祝ったが、後には新仏に供える十六日の燈篭祭となり、その余風が今の十六日祭であろうということである」と述べています。同書は「十六日祭の準備」として「今日ではもうやらないが燈篭張(トウロウハリ)」とわざわざ書き添えてさえいます。
元宵節が十六日祭に?
最後の説は要するに、旧暦1月15日(16日ではない)の「元宵節」が十六日祭の起源だと言っています。元宵節といえば、今や、ランタンで台湾の冬を彩る有名イベントに成長した伝統行事です。この説を採るならば、十六日祭は元宵節の亜種ということになり、台湾系の人たちが十六日祭をやったからといって沖縄化したとは言えず、むしろふるさと台湾へ回帰しようとしているとみることができるわけです。
十六日祭を突き詰めていくことにより、「八重山独特」とは何を意味するのかという新たな問いが生まれてきました。言い換えると、台湾系の人たちが沖縄に溶け込むということはどのような現象を指すべきなのかという疑問が湧いてきたということでもあります。八重山と台湾の密接な関係を見詰め直す必要があると、あらためて痛感させられました。
<参考文献>
〇上江洲均「沖縄の祭りと年中行事―沖縄民俗誌Ⅲ―琉球弧叢書16」榕樹書林/2008年
〇喜舎場永珣「十六日祭」(喜友名英文編「若い日」第2巻第3号/1950年2月)、喜舎場永珣「八重山民俗誌 上巻・民俗篇」(沖縄タイムス社/1977年)収録
〇宮良賢貞「旧十六日祭起源考―十八世紀以降祖霊供養に変化か―」(1957年2月11~13日付「海南時報」)、宮良賢貞「八重山芸能と民俗」根元書房/1979年)収録