台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

台湾で今川焼を売った

 

f:id:taiwanokinawa:20190530093216j:plain

台湾での体験を語る平良つる子さん。左は長女の国吉和子さん

2019年4月4日午後、那覇市泉崎の平良さん宅で松田良孝撮影


  幼い長女のためにあつらえた靴。

 表に干しておいたはずなのに、なくなっている。

 おや?

お向かいの子の足元の見てみると、長女の靴だ。

 でも、

「このぐらいいいさ」

 知らぬふりをすることにした。

 

 よく卵を産むニワトリ。

 夫が大事にしていたこのニワトリがいなくなってしまった。

 おや?

 チリ箱の辺りに、むしった羽根が散らばっている。

 夫は怒っている。

 「だけどもう、おとうさんいいよ。小さいことあまり気にしないほうがいいさ。盗まれたと思わず、そんなのもう」

 

 若いころに台湾を経験した平良つる子さんの言葉です。

 那覇市上泉出身の1922年生まれ。

 つる子さんはかつて台南の駅前で今川焼を売っていたことがあります。台南は、台湾を代表する古都。その玄関口が商いの場だったのです。

 

 ―売れ行きはどうだったの?

 「もう、食べるのあっちの人、上手だから。いつも足りないぐらい」

 「道どこでも食べて歩く、あちら辺の人は」

 台湾へ行ってみると、街のあっちでもこっちでもだれかが何かを食べているというのは珍しくない光景。つる子さんが「あっちの人は食べるのが上手」と言っているのはそういう意味です。

 

 ―なぜ今川焼を売ることに?

 「終戦でお父さんが、収入がもうなくなったでしょ?だから、もう、こっち(台湾)にいたら、もう大変だから。『お父さん、子どもあんた(長女の面倒は)見ておきなさい』って言って」

 

 つる子さんが今川焼を売っていたのは1945年のこと。台湾は終戦によって日本統治が終わり、世替わりを迎えていました。台湾軍経理部勤めだった夫の宗保さんは月給がもらえないことになりました。疎開のため、宗保さんが働く台湾へ長女を抱いてやってきたつる子さんは、夫に代わって稼ごうと決めたのです。それが今川焼

 

 「(旧日本軍の)少尉の奥さん二人を誘って。あっちも収入ない。私が『お宅は豆炊きなさい、お宅はこれをやりなさい』と言ったけど、一日でやめよった。私みたいに貧乏暮らししていないからね、あっちはね、意地がないからね。それでも、お金がなくなったら大変さ。だからね、今考えるとね、小さいときにあんまり裕福な家庭じゃないもんだから意地があったからね」

 

 長女の国吉和子さんが補足して言うことには、

 「話をすると日本人と分かるので、口がきけないふりをして売ったそうです。母は『自分のどこにこんな勇気があったのか』って振り返ることがあります」

 終戦の混乱のなかでは、日本人が報復を受けることもありました。それでつる子さんは日本人だと気付かれないように商売し、夫の宗保さんは表に出ずに長女の面倒を見るという役割分担になったのだそうです。

 

 ―今川焼の焼き方はどこで習ったの?

 「考えたら・・・どこからだったかね」

 ご自分でもよく分からないらしい。見様見真似だったのだろうか。

 「材料はたくさんあるんです。粉とか、砂糖とか。あれはいっぱいあった」

 「もらった配給から集めてあったから、これを持っていってから」

 貯めておいた配給品で今川焼を焼いたのだそうです。

 

 ―徒手空拳。ガッツを感じます。

 「なんでも、やってみないとね。いろんなことやる」

 「小さい時から、なんでも遊ぶのが好きだから。小さい時からね、ささっと考える。できなかったら、できないでいい。小さい時から、あんまり裕福な生活してないから。金持ちだったら、金で幸せできるでしょ?わたしはそういうところが、金持ちじゃなかったからよかったねと。金であれすると楽ではあるけど、大人になると、自分のいろいろあれさね、怖さが、あんまり怖いとか、なんとか考えるほうでないね。できないなら、できないでいい

 

 

 【平良つる子さん】

 1944年、那覇市役所勤務だった夫の平良宗保さんが上司の誘いで台湾へ単身赴任。つる子さんはその年の夏、当時6カ月だった長女の和子さんを抱いて台湾へ疎開することになった。再び家族で暮らすことになり、そのまま終戦。台南で今川焼を売っていたのは、終戦後、台湾からの引き揚げを待つまでの間のこと。

 

 インタビューは2019年4月4日に那覇市泉崎のつる子さん宅で行いました。本稿は、インタビューでうかがったお話の流れや表現を整えたうえで内容を構成し直したものです。