台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

ブックカバーチャレンジが回ってきた(前半)

はがき

 

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  そのイベントは、コロナのために取りやめになってしまったのですが、来てくれた人たちに配るつもりでポストカードを準備していたので、急を要しない連絡のときにたまに書いて送っています。コンビニのコピー機を使うと、自分で撮った写真をポストカードにするなんていうことが簡単にできてしまい、手間はそれほどかかりません。それで、これまで台湾で撮ってきたネコの写真から何枚かをピックアップして、ポストカードにしていたというわけです。

 返事をはがきでくださいと催促しているように思われてしまったらどうしようかと、悩まないこともなかったのですが、杞憂でした。無理せず、やれることをやれる程度にやるという私の性格を、みなさんが知っているのか知らぬのか、返信ははがきではなく、メールや電話、郵便などで届きます。

 

お返し

 

 驚いたのは、「お返しに」ということで絵本を送って下さる方がいらっしゃったこと。私は多読ではありません。題名は知っていても、読んだことのない作品がいくつもがたくさんあります。「百万回生きたねこ」(佐野洋子作)もそのひとつです。閉じこもり生活も悪くはありませんが、あまりに長いと体に良くない。通販で注文した本が届くのではなく、思いがけず、ぽんっと本が届く。冷えて固くなった油が急に滑らかさを取り戻したみたいな感覚を与えてくれます。

 

 

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「入り口」たくさんの台湾本

 

 私は台湾を専門的に取材しているわけではないのだけれども、台湾とかかわりのあることを取材しているので、台湾そのものを扱った本を参照しながら文章を書くことが多い。なかでも「台湾史小事典」増補改訂版(呉密察監修、中国書店、2010年9月)は最もお世話になっている本といっていい。題名から分かる通り、台湾が歩んできた歴史的な経緯と、台湾の関する事典という機能を併せ持つ。しかも、コンパクトサイズなので、手に取ってぱらぱらとめくるのが容易。

 調べ物をするときに書棚から取り出し、言葉や時代を確認するときに参照する本である、基本的には。しかし、読書の対象となる本でもあるし、台湾へ旅行に行くときにお伴にしてもいい。沖縄と台湾の関係を読み解くワードのひとつ「琉求」についてももちろん言及しており、台湾か沖縄かをめぐっていまだに定説がないこの言葉の意味を考えるきっかけを与えてくれる。台湾への「入口」をいくつも用意しておいてくれている本である。

 

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農村医療のドキュメンタリー

 

 長野県臼田町の佐久総合病院で農村医療に取り組んだ著者の自伝的な記録である。戦後の山村で繰り広げられた農村医療の黎明期を描いたドキュメンタリーとして読むこともできる。その取り組みをひとつの例から示すならば、農民たちが抱えていた慢性的な「冷え」を挙げることができるかもしれない。かの地の農民には当たり前であった「冷え」を自覚するよう促し、農村の生活改善にまで目配りをしていくのだ。これが1952~53年の活動だというから、つまり半世紀以上も前の話である。(pp122-127)

 沖縄では戦後、米軍統治下において公衆衛生看護婦の制度が実施され、1990年代後半まで続いた。私はこの制度が終わりかけていたころに八重山地方で新聞記者をしていたことがあり、与那国島西表島などにはまだ保健婦が駐在していた。この保健婦こそが、かつての公衆衛生看護婦(公看)であり、古い世代の人は「コウカンさん」という親しみを込めた呼び名を覚えていた。

 駐在の保健婦たちは、その土地で暮らす人たちの保健や衛生にまつわる仕事をするのだが、そこで暮らしている住民でもあるものだから、人々の暮らしのことをよく知っていた。ずかずかと勝手口まで入り込んでいく厚かましさを自ら誇りとするようなバイタリティがあり、実際、家庭の中をよく知っていなければ、個々のケースに対して的確な支援を行うことはできなかった。それは、現在の行われている介護保険制度でアセスメントを行い、介護を必要とする人の家庭環境を確認することからも分かる。

 佐久総合病院が行った「冷え」対策は、アセスメントに基づく対症療法と、生活改善による根治療を組み合わせたものなのである。

 

暮らしの中に入っていく

 患者の暮らしの中に入っていく著者らの姿勢は、戦後間もない1945年12月に始まっている。病院で「手遅れ」の患者たちを診るばかりでなく、「一歩進んで村の中に入っていって、病気を早期に発見することの方がより重要ではないか」(p30)という考えから出張診療活動がスタートした。これが往診と違うのは、健康や病気をテーマにした寸劇を村へ持っていき、啓蒙活動を行った点である。

 これがさらに発展して、村民の健康台帳や健康手帳をつくり、病気を軽症のうちに発見して治す、あるいは、病気の予防に努める活動につながっていった。この活動が始まったのは1959年である。予防の大切さはいまさら言うまでもないことだが、半世紀前に先駆的な取り組みがあったということが頭に入れておいていいことだと思う。もっとも、著者はその成果を手前味噌的に誇っているわけではない。医療費の低減などで一定の効果はあったものの、健康や医療に対して村民の意識がどう変化したかということについては辛口な自己採点をしている。そのうえで、農村の人々の健康を向上させるという取り組みをひとつの「運動」としたとき、著者自身が「真に大衆と結びついた仕事をなしとげうるか」と自問するのである。(「Ⅴ 村の健康管理」、pp156-164)

 

テクノロジーの変化

 啓蒙活動は、当初は病院に設けた演劇部がその任に当たったが、テレビの普及に押されてその効果が薄れたことから、今度は映画を制作して農村医療の改善に向けた雰囲気づくりをする(p150-151)。テクノロジーとそれに伴う社会の変化に応じて、伝える側にも変化が求められるという点は時代を越えて普遍的だ。かつての手法を踏襲しつつ、新しい技術を取り入れて変化していくわけだ。ライブ配信や遠隔会議システムの技術を、コロナをきっかけに取り入れる人が増える昨今だが、そこからもたらされる変化とは何かという問題にも通じるところがある。

 

屈折した心情も

 本書の前半には、「いつもまじめに日常の仕事を行っていれば、さいごには必らず、はばの広い農民の支持をえられるものだ」(p32)、「民衆といっしょに、まじめな仕事をしていれば何も心配はない。大衆に支持されていれば何もこわくないのだ」(p57)などと、泥臭くもまっすぐな言葉が登場する。戦前、主義をめぐる転向によって屈折した心情を抱えた著者が語ればこそのフレーズである。台湾南東部で行われている訪問診療の様子を取材したとき、記事を執筆するにあたって参考にするために購入した本だが、あらためて読み返してみると、アジア太平洋戦争の終結を挟んで連続と不連続を経験した社会のありようや、その社会のなかで自らの信条に従って生きることの大切さや難しさを、農村医療に取り組む医師の眼で描いた文学作品と位置付けてもいいように思う。

 

 

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