「佐良浜漁師の南方漁」
佐良浜地区漁業集落活性化協議会
菊地悦子 文
山田光 絵
普天間一子 監修
2020年3月
南方漁のエリア
「佐良浜漁師の南方漁」を監修者の普天間一子さんにお送りいただき、さっそく開いてみた。温かみのある絵と、島ならではの言葉や習慣を無理なくちりばめた文章が続き、もっと読みたいという願望を引きずったまま最後のページにたどり着いてしまった。
マレーシア、インドネシア、オーストラリア北部、フィジーまでを網羅した地図が、佐良浜の漁師たちが活動する「南方」のエリアを示している(pp08-09)。戦争体験を取材したり、インタビューしたりするときに耳にする地名が重なってみえるのは偶然なのだろうか。直線距離にして約5000キロという航海は12、13日に及び、そこでようやく佐良浜の漁師たちはカツオを釣ることになる。
私が取材のテーマとしているのは「台湾と沖縄」である。このくくりで物事を見続けていることを、ひとつのこだわりとして評価してくれる人はいるが、私自身は何かの一つ覚えとならないように用心しているつもりである。
それはどういうことか。
取材で意外性に出会う
新聞で「佐良浜漁師の南方漁」が紹介されているのを見て「読んでみたい」と思ったのは、そのなかに台湾に対する言及があるのではないかと期待したというのが大きい。私が佐良浜に足を踏み入れることになったのも、台湾を経験した海人の話を聞きたいと思ったからである。
インタビューではもちろん台湾のことが語られるのだが、それは台湾経験のある人に会いにいったからである。そして、語られるのは台湾のことだけではない。2013年9月、1930年生まれの男性からインタビューした。この男性は新南群島(スプラトリー、南沙諸島)やパラセル諸島(西沙諸島)での経験も語った。戦後のこと。座礁した潜水艦が放置されているという情報を聞きつけて行ってみると、座礁船があるにはあったが、その警戒に当たる艦船が眼に入り、全速で逃げ帰ったという話。潜水艦をばらして鉄類を手に入れ、「戦果」として売りさばくという計画は果たせなかった・・・
こうしたインタビューが私に教えてくれる教訓は、インタビューは狙い通りにはいかないということである。入念に準備をすることは大切なことで、それは先方に対するマナーでもあるのだが、いざ話を聞き始めると、目論見とは異なる意外性にあふれた体験が語られる。予測のなんと浅はかなことか。
当たり前に近いからこそ
「佐良浜漁師の南方漁」をめくっていったときも、これと似た意外性を感じ、自らの浅はかさを再確認した。佐良浜の漁師たちが行う南方漁の地図のなかで、台湾と沖縄を囲んだエリアはかすむほど小さく、直線距離約5000キロを12、13日かけて航海していくスケールは物理的にも時間的にも広く、私などには茫漠としているように見えてしまう。
このスケールからすると、佐良浜と台湾は間違いなく近い。赤道の向こう側までを収めた地図を眺めていると、ウミンチュたちが沖縄と台湾を囲んだ海を一括して生活圏とみなしていたであろうと自然に思える。当たり前に近い台湾だからこそ、台湾との間に親密な気持ちを抱くともいえるし、いちいち気にしているわけにはいかないが故に特別扱いすることもないといえる。
「佐良浜漁師の南方漁」が対象としている広大なエリアをポジとし、そのネガとしての沖縄と台湾を私はあらためて考えるのである。
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「与那国の歴史」
池間栄三 著
池間苗 発行
写真は1999年発行の第7版。初版は1959年11月5日発行
「1920年代より台湾と取引」
与那国島を旅したことのある人が手に取ってみれば、現地で見逃していたエピソードの数々に気づかされることだろう。また行かなきゃという気分になること請け合いである。そして、これから旅しようかと考えている人がいるならば、出発の前に手に入れてめくっておきたい基本文献だ。
教科書的に説明するならば、与那国島は日本の最西端に位置し、台湾と111キロのところに浮かんでいる。
とはいえ、島から台湾に渡ることはできない。那覇経由か石垣経由を選ぶことになるが、それも今は難しい。コロナが解決し、国際線が再び行き来する日を待つことにしよう。
今のこの状態は、ある意味で百年前に戻ったといえる。本書の「第1章 与那国島の地誌」には次のように書かれていた。
このフレーズの前後に配された記述は、アジア太平洋戦争が終わるまでの時期について書かれたものであり、そのころの島では、農業では米や黒糖、漁業では鰹節、鮮魚などを島外に出荷していた。また、副業として養豚が盛んに行われ、こうした産品の取引は主には石垣・那覇方面であり、米や黒糖、鰹節などが移出されていた。その後、1920年代に台湾との間で取引が盛んになり、豚や鰹節、鮮魚を出荷していたというのである。
与那国島と台湾は地理的に近いのだけれども、今から100年前はというと、物資を盛んにやりとりするような関係にはなかった。時代は違うし、背景となる要因もまったく異なるが、「往来が無の状態」という意味では、今も似たり寄ったりだ。
大正期の提言
1917(大正6)年10月の6日間、台湾総督府の技師ら10人が与那国島を視察しており、その記録は台湾総督府農事試験場「沖縄県与那国島視察報告」(1917年)、樫谷政鶴「産業上より観たる与那国島」(「台湾水産雑誌」23号、1917年11月)などとして残されている。台湾方面との取引が活発になる少し前の時期に、台湾からやってきた彼らは何を見たのか。樫谷政鶴「産業上より観たる与那国島」では、島の集落を次のように説明していた。
この記述だけだと、久部良がどのような村だったのかははっきりとわからないが、この論文が島の産業振興策として提言している内容を読むと、鰹節の製造はまだ本格していなかったと推測できる。すなわち、次のように書かれているのだ。
当時の台湾で行われていた鰹節製造に比べると、与那国島ではコストを抑えられそうだ。だから、台湾から与那国島へ資本を投下し、鰹節製造を興すべきだと説いている。もし、与那国島で鰹節の製造が盛んにおこなわれていたとしたら、このような提言は行われない。
久部良の地位
この提言が当時の産業界にどのような影響を与えたのかは不明だが、「与那国の歴史」が言うように、その後、台湾との行き来が活発になり、与那国島で製造された鰹節が台湾へ盛んに運ばれるようになる。島産品の積出港として、久部良はその地位を徐々に上昇させていき、島と台湾を結ぶ船は必ず久部良に立ち寄るようになっていった。
1931年12月23日付の「先島朝日新聞」は次のように書く。
島の百年
与那国町は今、台湾との間で船を運航する計画を進めようとしている。これまで何度も行われてきたチャレンジに再び取り組もうというのだ。「与那国の歴史」は、台湾とのことを詳しく書いているわけではない。しかし、「1920年代より台湾基隆及び蘇澳との取引が盛んになり」という小さな記述は、台湾と近接して歩むことを運命づけられた与那国島の百年を象徴的に言い表している。