台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

ブックカバーチャレンジが回ってきた(後編)

 「グスク・ぐすく・城 動乱の時代に生み出された遺産」

琉球王国のグスク及び関連遺産群 世界遺産登録20周年記念特別展図録

沖縄県立博物館・美術館

2019年11月

 

「グスク・ぐすく・城 動乱の時代に生み出された遺産」

琉球王国のグスク及び関連遺産群 世界遺産登録20周年記念特別展図録

沖縄県立博物館・美術館

2019年11月

 

地名の事実

 台北市を南北に貫く大通りのひとつに重慶北路と重慶南路がある。重慶南路は台湾総統府の前を通っているので、通りの名前を意識したことはなったとしても、そこに立ったことがある人は少なくないのではないか。戦後、大陸から台湾に渡ってきた中国国民党が中国大陸の地名を台湾のあちこちに付けていった、そのうちのひとつである。大陸の重慶が主で、台北重慶南路と重慶北路が従だなどということを言いたいわけではない。台湾の地名を一つずつ見ていくと、そのような経緯を持った地名が事実としてあるということである。

 日本統治期の地名についても同じことが言える。

 台北市内のMRTに古亭という駅があるが、この名は日本統治期に一帯が古亭町と呼ばれていたことに由来する。かつては、タイヤルからの襲撃を備えて太鼓を打ち鳴らした場所「鼓亭荘」があり、この「鼓亭」を「古亭」としたようである。

 私は、台湾師範大学中国語センターに通っていたころ、古亭駅で乗り降りすることが多かった。私が部屋を借りていたエリアにあるMRTの駅から古亭までは乗り換えなしで来ることができたし、古亭でMRTを降りると、センターまでは歩いて5分ほどしかかからなかった。この文脈から言えば、古亭という地名は、日本統治期とかかわりのある地名ではなく、生活の中に埋め込まれた土地の名前のひとつなのである。その地名が今に至る経緯は事実として存在するが、そこで生きている人たちの日常と不可分に結びついているわけではない。

 

台湾で暮らした沖縄人を探索する

 日本統治期の古亭町241番地というところには、ある沖縄出身者が暮らしていた。この人物は台湾で終戦直後に発足した沖縄出身者の組織、台湾沖縄同郷会連合会の役員を務めていた。

 私が台湾沖縄同郷会連合会のことを意識するようになったのは、アジア太平洋戦争末期に八重山など沖縄から台湾へ疎開した人たちが戦後になって沖縄へ帰還するにあたり、この連合会が疎開者たちを支援していたということを知ったことによる。私は2005年から台湾疎開のことを取材するようになり、その一環として連合会のことも調べるようになった。

 古亭町241番地という住所もこの取材の中で知ることになった場所である。連合会が台湾のどこを拠点として、どのような活動をしていたのかという点は取材のなかで重要なテーマだったが、役員の面々がどのような場所で暮らしていたのかという点はそれほど重要ではない。しかしそれでも、そこへ行ってみることで何かを感じられるかもしれないという根拠の薄い期待感を私は抱くのである。

 

痕跡はない

 日本統治期の地図を見ると、古亭町241番地は現在の台湾師範大学の南側に位置することが分かる。南北に走る師大路と龍泉街という二つの通りの周辺である。ついにチャンスが訪れ、というほど大げさではないが、ともかく私は2012年11月にそのあたりに訪問することになった。大学の近くということもあって、そこは食堂やカフェなどが立ち並ぶにぎやかなエリアだった。そして、案の定、日本統治期の古亭町をうかがわせる痕跡はなく、台湾沖縄同郷会連合会なる組織をうかがわせる記念碑やら何やらがあるはずもない。もともと期待していったわけではないので、私としては場所を確かめ、今現在の空気を吸うことができただけで大満足であった。

 私はその後、台湾に活動拠点を移し、台湾師範大学中国語センターに通うようになり、師大路や龍泉街を身近に感じられるようになったのだが、それはこれらのエリアが生活の中に埋め込まれていくということであって、日本統治期の古亭町が身近に感じられるようになったり、台湾沖縄同郷会連合会について新たな知見を見出したりといったことではもちろんない。せいぜい、台湾の観光ガイドを見て、龍泉街がトラベラー向けに紹介されているのをたまたま発見して意外な気持ちを抱いたぐらいである。

 

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台北市内の龍泉市場

2012年11月19日、松田良孝撮影

 

3つ目の「龍泉」

 ところが、である。

 ことし3月に、「グスク・ぐすく・城 動乱の時代に生み出された遺産」という冊子を頂戴して、龍泉街のことをあらためて意識することになった。この冊子は2019年11月からことし1月まで沖縄県立博物館・美術館で開かれた「琉球王国のグスク及び関連遺産群 世界遺産登録20周年記念特別展」の図録なのだが、沖縄県立芸術大学森達也教授が寄せている「グスク出土の陶磁器」という論文(pp36-37)を読んでいて、龍泉街のことを思い出したのである。

 この論文は「明時代前期に龍泉窯で生産された皇帝専用の青磁」に着目して、沖縄のグスクから出土する青磁器の特徴を分析したもので、次のように指摘してる。

 

 今帰仁城首里城、渡地村跡などではこの龍泉窯官器が数点出土している。これらは皇帝から下賜されない限り入手不可能であり、琉球王への特別な礼品であったと考えられ、当時の朝貢の実像を示す資料として重要である。

 

 こうした見解に基づき、さらに「グスク出土の陶磁器は当時の琉球の国際関係や文化の実像を我々に伝えてくれる貴重な資料なのである」と結んでいた。

 かつて古亭町だったエリアにある龍泉街。「龍泉」という漢字二文字の組み合わせから高貴な香りが立ち上ってくる。念のため、広辞苑を引いてみると、「竜泉窯」(りゅうせんよう)という見出し語が立っており、次のように説明されていた。

 

 中国浙江省竜泉市とその付近一帯にあった、北宋から清代にかけての青磁器。日本では特に、宋・元代の良質の製品を砧青磁と称し珍重。

 

 明の皇帝が琉球の王に授けた青磁器のことなのだろうか。龍泉窯・竜泉窯と、かつて古亭町だった龍泉街との間にいかなる関係があるのだろうか。重ねて言うが、高品質の青磁器を産んだ龍泉・竜泉と、台北市内の龍泉街に主従関係があるわけではない。かりに、なにがしかの関係があったとしても、一方が他方に従属するということにはならず、それぞれが独立した土地として、または独立した地名として、現在進行形的に歴史を刻んでいるのである。

 

 偶然手にした冊子をきっかけに私が龍泉のことをあらためて考えるようになったのは、中国大陸の龍泉・竜泉と台北の龍泉というふたつの土地に、さらに、高品質の青磁器をメディアとして龍泉という地名を保存してきた沖縄が加わったからにほかならない。「龍泉」という地名を串刺しにして、大陸と台湾、沖縄をつなぐという企みは、私には荷が重すぎる宿題だが、同じ地名がてんでばらばらに進化していく様を見比べることならなんとかできそうである。それが、日本統治期の古亭町を理解する一助になるかはあいにく不明瞭ではあるが。

 

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感染症と文明」

山本太郎

岩波新書(新赤版)1314

2011年

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 八重山や台湾の人々をつい最近まで苦しめてきたマラリアのことや、2003~04年に流行したSARSのことを知りたくて、手元に置いている新書である。「文明」という言葉を私は自分から使うことはほとんどなく、本書はなじみのない場所からものの見方というものを教えてくれる。

 

ペスト後の社会

 取り上げたい論点はいくつもあるが、ペストがどう書かれているか紹介しよう。筆者はペストがヨーロッパ社会に与えた影響として次の3点を挙げていた。

 

(1)労働力の急激な減少が賃金の上昇をもたらした。労働者の購買力は上昇し、それまで経験したことのない経済的な余裕をもつことになった。

(2)教会は権威を失う一方、国家というものが人々の意識のなかに登場してきた。

(3)人材払底により、既存の制度では登用されなかった人材が登用され、社会や思想の枠組みを変える原動力になった。

 

 私がこの3点を引用したのは、これらのことが新型コロナのあとに到来すると言いたいからではない。最後の(3)に続けて筆者が

 

 結果として封建的身分制度は実質的に解体に向かうことになった。それは同時に、新しい価値観の創造へと繋がっていった。

 

 と述べている点に着目しておきたいのである。

 

鎖国」の影響

 新型コロナの蔓延がもたらしたものをひとつのキーワードで表現するなら「鎖国」であろう。人々の移動は極端に制限され、国境を越える往来はほとんど途絶えたといっていい。越境する労働者が世界を支えていたのだと今更ながらに思わされる。国内であれ海外であれ、越境してくる人たちの存在が薄れ、ものの売り買いや行楽は困窮を極めた。なにしろ、外国人労働者も観光客も、どちらも疫病のキャリアとなりうるのだ。これは、向こう側からこちらへ入ることを禁じることを意味するだけでなく、こちらから向こう側へ渡ることが禁じられることも意味する。

 

 この「鎖国」によって、外国人の働きに依存することができなくなり、ロボットによる代替がより一層進むかもしれない。あるいは、観光業など人の移動に依存してきた産業の従事者が仕事を失い、代替するかもしれない。その場合、人件費は、外国人をそう遇してきたのと同じように、低賃金に抑えられることになるのだろうか。もしそうならば、低所得者層の増大につながるだろう。賃金レベルを維持するという選択をしたならば、たとえば都市近郊農業の野菜は高級品となり、広範な食料不足から栄養の偏りが広がり、あらたな疾病を生じさせ、経済格差を一層広げるかもしれない。都市は雇用吸収力を失い、人々の流れはいなかへと向かうかもしれない。不動産価格は軒並み下落し、資産を元手に利息で暮らしてきた富裕層はやせ細り、虫食い状に空洞化した都市では社会サービスのネットワークが寸断され、治安が悪化する。インターネット空間に構築されたサービスは、限られた人だけが消費するものとなり、情報の寡占が進み、権力の集中を招く。なにしろ、大多数の人々は目先の生活を維持することで精いっぱいとなり、スマホを眺めてゆっくりお勉強している余裕などなくなってしまうのだから・・・

 

悲観的に過ぎるだろうか

 SFにもならないおとぎ話かもしれない。または、悲観に過ぎた荒っぽい想像にすぎないかもしれない。しかし、封建的身分制度が解体していったのと似たようなことが起こりえないとまで言い切れるかどうか。

 

感染症対策の葛藤

 そもそも、感染症を抑え込むとは、どういうことなのか。

 本書では、この問いから派生する葛藤が率直に語られており、そこに筆者の真摯な姿勢を読み取ることができる。

 筆者は「エピローグ」のなかで、歴史家のウイリアム・マクニールが述べたという「大惨事の保全」の考え方を取り上げている。ミシシッピ川の洪水を封じ込めるため、堤防を嵩上げする対策を重ねた結果、年ごとの洪水を防ぐことには成功したものの、「例年の洪水など及びもつかないような、途方もない被害が起こる可能性がある」とするもので、その前例は紀元前800年ごろの黄河流域にみることができるという。

 この考え方を感染症対策に援用するとどのようなことがいえるのか。

 

途方もない被害?

 筆者は、致死性を有する病原体、しかも宿主であるヒトとの間でまだ安定的な関係を築いていない病原体を挙げつつ、こう述べる。

 

 医師として、医学に携わるものとして、そうした病原体によって奪われる生命(いのち)を見過ごすことはできない。(中略)一方で、もしかすると、(病原体から生命を守る営みの)その積み重ねが大惨事につながるものかもしれないということも知っている。

 

 ここでいう大惨事とは「例年の洪水など及びもつかないような、途方もない被害」を指す。

 そして、

 

 こうした問題に対処するための処方箋を、今の私はもっていない。しかし「共生」が、進むべき大きな道であることを確信している。だが、それによって対価を支払うことになる個人がいるとき、私たちは、この問題にどう応えていくべきか。

 

と投げかける。

 

抑え込んだ先に

 本書では、致死性を有する病原体とヒトとの間で安定的な関係を築くことを「共生」と呼んでいる。そして、この「共生」の段階に至るまでの間に犠牲者が出ることは、新型コロナウイルスが引き起こしている事態を見ればわかる。この猛威を抑え込もうとすることが、さきざき、さらにやっかいな事態につながる可能性を「保全」することになってしまうのではないか・・・

 熱帯感染症学を専門とし、アフリカやハイチで感染症対策に当たってきた著者ならではの見方だけに、日々のニュースで伝えられる新型コロナの感染者数に一喜一憂しているだけでは不十分なのだとあらためて思わされる。

 

 

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