台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

石垣島の土地公祭に転換点 台湾系の神事が大きな節目 (4)

かつては「ブタ祭り」

 

 40年以上前の「八重山毎日新聞」に土地公祭のことが出ている。1977年9月に報じたもので、この記事には「土地公祭」という表記は見られず、「ブタ祭り」と表記されている。記事には次のように書かれている。

 

  この祭りは、昭和8年から同15年にかけて台湾から600人が農業開拓で八重山に入植したが、凶作と疫病に悩まされ、なかには祖国への郷愁にかられる人々も出て来たため、祖国の行事にならって農作物の豊作と無病息災、家内繁栄を願い、昭和11年から毎年旧暦の8月15日に催したのが始まり。

 

 一方、台湾・台中出身の故・横山長発氏(1923年生)は2002年9月に筆者のインタビューに対して、台湾出身の仲間7人とともに初めて土地公祭を開いたのは昭和12年だったと語っている。横山氏は、台湾では旧暦8月15日と旧暦2月2日に土地公の神事が行われると説明し、石垣島で旧暦8月15日に土地公祭を行う意味を説明している。

 

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横山長発さん

石垣市名蔵の名蔵御嶽、2006年10月7日(松田良孝撮影)

 

 八重山毎日新聞の記述と横山氏の説明とを比べると、土地公祭が始まった時期について1年間の開きがあるが、誤差の範囲内とすることも可能であろう。八重山毎日新聞が「昭和11年」としている記事がどのような取材に基づくものなのか今となっては確認することは難しいが、土地公祭を取材に訪れた記者が参加者から話を聞き、横山氏やその仲間から「昭和11年」や「昭和12年」といった時期を聞き取ったと考えるのが自然である。

 

祈りのスタイル

 

 本連載の1回目で取り上げた1952年撮影のモノクロ写真は、土地公祭が1930年代後半に始まって10年ほどが経過した時期のカットということになるが、写真の説明書きに「旧八月十五日」とあり、土地公に対する言及はなく、「ブタ祭り」という表記もない。わざわざ「土地公」と言わなくても、参加していた台湾系の人たちの間では旧8月15日には土地公を拝むために名蔵御嶽に集まるという合意が成り立っていたということなのかもしれない。

 祈りのスタイルにも着目しておこう。

 土地公祭は当初、香炉に線香をささげることによって神様を拝んでいる。神像はない。「八重山毎日新聞」が撮影してきた写真をたどっていくと、こんにちのように神像の前に香炉を置いて線香を奉げる形式が登場するのは2001年からのことであり、60年余りにわたって香炉のみだったことが分かる。

 

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炉主のもとから名蔵御嶽へ出発する土地公

=2005年9月18日、石垣市美崎町(松田良孝撮影)

 

 土地公を拝むスタイルの変化をどのように読み解くべきなのだろうか。

 学術論文にヒントを探してみると、1966年8月と1968年2月の調査に基づいて書かれた牛島盛光「沖縄における文化変動―本島および石垣島における事例研究」窪徳忠編著「沖縄の社会と習俗」1970年、東京大学出版所収)にたどりついた。復帰前の土地公祭を調査した貴重な記録である。牛島はこのなかで、嵩田地区の年中行事を一覧表にまとめ、土地公祭については「十五夜(豚祭)」と表記している。説明書きには次のようにあった。

 

  台湾では土帝君(土地神)の彫像を拝むのだが、嵩田ではオガン(聖域)自体が借りものなので、土地の習俗に従い、香炉で香を焚くだけである。

 

 神像を持たず、香炉に線香をささげて拝むスタイルは、名蔵御嶽のマナーに則ったものだという見解が示されている。「郷に入らば郷に従え」と言ってしまえばそれまでのことだが、それでは言い尽くせていないようにも思える。

 

存在空間

 

 台湾系の人たちが自分たちなりの方法で神事を行うことができる空間が、このころの石垣島にはまだ形成されていなかったという解釈も成り立つのではないだろうか。台湾系の人たちから時に語られる差別や被排除の経験と無縁ではないように思えるのだ。

 

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紙を燃やす

=2005年9月18日、石垣市名蔵の名蔵御嶽(松田良孝撮影)

 

 2001年に神像を迎えて以降、名蔵御嶽に土地公の神像を持ち込むことに異論が出たという話は、少なくとも公には私は聞かない。とすれば、台湾系の人のための空間が成立したことを、土地公の神像は示しているともいえる。台湾2世の王田達夫さんが建立している土地公廟本連載3参照は私的なものだが、石垣島の中に台湾的な信仰の空間を広げたという点で、八重山で暮らす台湾系の人たちをめぐる公的空間の変化を考える起点となるのかもしれない。

(おわり)

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