石垣島生まれで、石垣島在住でもあるTさんは、自身が台湾系であることを今も隠したままだ。知人のなかにはTさんが台湾系であることを知っていたり、覚えていたりする人がいるかもしれないが、それはともかく、自らの出自を語ることはない。
先日、約20年ぶりにあらためてお話をうかがったが、このスタンスは変わっていなかった。ご自身の気持ちを次のような言葉で説明した。
言葉にできない
「『台湾出身です』と言った時、相手からどんな反応があるか分からないのが怖いんです」
Tさんから久しぶりに話を聞いてみたいと思ったのは、ちょっとした取材拒否に遭ったことがきっかけである。台湾系2.5世のSさんから電話がかかってきて
「私たちのことは書かないでほしい」
と言われたのである。私はその時、Sさんと関係のある別の台湾系の人のことを取材していたのだが、そのライフヒストリーを広げていくと、話はSさんに及ぶ可能性が高く、それで
「書かないで」
と言ってきたのである。
「台湾出身ということだけを理由にして『書かないで』というのは子どもっぽいということは分かっているのですが」
とSさんは言っていた。抗議するというより、書かないでほしいという懇願に近い。
Sさんは、私の取材をまったく受け入れなかったのではない。コンタクトは保たれていて、Sさんのほうから資料を提供してくださることもあった。ご自身の近親者が残したポジティブな功績についてならむしろ積極的に取材に協力してくださるが、その台湾性がご自身に及ぶこととなると、そこはがっちりとガードしたいのである。理由は言語化できずにいるようだ。いろいろなことが口にすることを阻んでいる、あるいは、いろいろなことがありすぎて拒んでいるということかもしれない。敢えてこの点に踏み込むほど、私はSさんとの間に信頼関係を築けていない。初めて顔を合わせ、名刺を差し上げたのはつい最近のことである。
石垣島へやってきた台湾の人たちは暴力にさらされていた。戦前、つまり、台湾が日本の統治下にあり、台湾の人たちが日本国籍を持つ者として石垣島など八重山に来ると、そこでは単に
「台湾人だから」
という理由で待ち伏せされたり、罵られたりということがあった。
戦後、日本による台湾統治が終わると、台湾系の人たちは、今度は外国人として扱われることに、制度的に不利な扱いを受けたばかりか、戦前の不当な扱いも続いた。沖縄がパインブームを迎え、人手不足を埋める形で台湾から労働者が沖縄にやってくるようになると、この状況は好転する。台湾からの労働者はパイナップルを加工するスキルに優れ、沖縄の人たちから敬意を持たれるようになるのである。今では、石垣島に台湾系の人たちがたくさん住んでいることはよく知られるようになってきたし、パイナップルやマンゴー、水牛など台湾出身者が持ち込み、定着させた風土が石垣島にはある。だから、台湾に対する肯定的な受け止めは広がっている。
しかし、それだけではないのである。TさんやSさんの振る舞いは、こうした事実をあらためて思い出させてくれる。
小さな履歴書
八重山で暮らしてみると、プライバシーに対する独特さに出合うことがある。
筆者がかつて所属していた新聞社は石垣島に本社があるが、その紙面には謹告が掲載されることが普通である。沖縄に限らず、新聞広告にはもともと告別式のスケジュールを知らせる役割があるが、八重山では、だれかが亡くなるとほぼ例外なく「謹告」が掲載される。著名人に限らず、である。だれかが亡くなると、故人の名前や告別式のスケジュールが記されるほか、故人の家族や知人の名前が並ぶ。人によっては関係のあった団体、同窓生の集まり、郷友会などが続き、出生地や職業を書き添えることもある。
八重山地区に含まれる離島では、今も物故の知らせを紙にプリントして集落の辻に張り出す習慣があり、筆者の知る限り、与那国島では現在も行われている。告別式の日取りとともに、親族や縁故者の名前を公に知らしめるのである。同じ土地に暮らす人たちに、だれかの死をうやうやしく伝える役割を、今は新聞が代行しているのだ。
試みに、2021年11月の新聞をめくってみたところ、八重山の地元紙2紙(「八重山日報」と「八重山毎日新聞」)に掲載された謹告は計41枠あった。県が公表している人口を基に計算すると、人口10万人当たり76・9枠である。
これは多いのか少ないのか。
県紙2紙(「沖縄タイムス」と「琉球新報」)は同じ月に計563枠が掲載され、人口10万人当たりでは38・3枠だった。謹告の黒枠は、八重山では県全体の平均に比べて2倍掲載されていることになるのだ。八重山は、親しい人の訃報を共通したいという思いが沖縄県内でも特に強い地域といえるだろう。
台湾系の人が亡くなった場合、台湾系の人たちが中心になって組織する琉球華僑総会八重山分会という団体が、故人の関係組織として謹告の黒枠の中に名を連ねることもあり、この点から出自が台湾につながっていることがわかる場合もある。台湾に住む縁故者の名前が載ることがあり、ここでもまた、故人が台湾系であることが明示される。
謹告は、さながら小さな履歴書だ。故人を生かしてきた器そのものだといえる。物故者を地域ぐるみで送るこの習慣を私は好ましいものだと思うし、人と人とのつながりによってできる温かな「編み物」に私自身、助けられてきた。
好ましくもプレッシャーな
しかし、これは、出自を隠しておきたい人には心理的な圧迫となる。謹告の書きぶりからわかるのは、この人はどこのだれで、どのように生計を立てていて、どこの学校に通っていて・・・という情報が抵抗なく流通し、あけっぴろげでさえあるという風土である。Tさんは勤務先の集まりにはあまり参加しない。あなたはどこの出身で、両親はだれで、既婚か未婚か、既婚であれば配偶者はどこのだれか。集まりがあると、プライベートな情報は話題になり、デリケートだからという理由でプライバシーに触れないようにするという歯止めは必ずしも期待できない。出自を話題にすることは人間関係の円滑化に資すると思われたとしても、リスクであるとは認識されにくい。
Sさんはというと、ある親族が亡くなった時に掲載された謹告を見てみると、ほかのきょうだいは名前を連ねているのに、Sさんの名前はなかった。
漏れ伝わる情報
濃密な人間関係が生み出す心理的な圧迫は、TさんやSさんだけが感じているわけではない。上江洲義正著「島を出る」(水曜社)を読み、あらためてそう思わされた。
この本は、石垣島出身のハンセン病回復者、宮良正吉さん(1945年生)の足取りを描いている。宮良さんは、小学4年生のときに身体検査でハンセン病にかかっていることが分かり、翌年の1956年4月に沖縄愛楽園に収容されている。ハンセン病といえば、らい予防法違憲国家賠償請求訴訟で、熊本地裁が2001年5月に「国の隔離政策は違憲」との判決を出し、確定したが、本書は、こうした社会の移り変わりをタイムスケールとしつつ、宮良さんという当事者の目線で「個」の世界を描こうとしている。
描かれるエピソードには、息が苦しくなるようなものが少なくない。就職して勤め先での人間関係ができたり、家族を持ったりすると、ハンセン病の療養所に暮らしていた過去を消すため、当時の仲間たちと距離を置く人たちがいるのだという。宮良さん自身は、小学6年生から10年から書き続けてきた日記を焼いた経験があるそうだ。著者の上江洲さんは「昔につながる端緒さえ断ち切らなければならないと思ったのである」と、宮良さんの内面を代弁する。
「帰ってきちゃだめじゃないか」
島の人間関係も、目の前に立ちはだかる存在となる。いつの間にか島から姿を消し、その理由はハンセン病だというデリケートな情報がいつの間にか漏れ伝わる島の人間関係である。島は、海という物理的な境界で囲まれている。進学や就職で八重山を出た人たちは、島との間にきずなを保ち、島というエリアは心理的には広がっていく。しかし、それは人に因りけりだ。本書を読み進めると、ハンセン病を理由に島を離れた人があらためて島に戻ることは簡単なことじゃないとわかる。帰れたとしても、友人から会うことを断られたり、親しい人から「帰ってきちゃだめじゃないか」と言われたりする。
上江洲さんの解釈によると、「島を出る」という宮良さんの行為は、ハンセン病がきっかけであると同時に「あたらしいふるさとに出会う旅でもある」という。「あたらしいふるさと」と言われると、ポジティブな響きを感じるが、そこには生まれ島との間に隔たりがある。上江洲さんは、その距離を島に向かって問うているのである。
好転し、それでも残る部分
「私はどこのだれですと、普通に言えばいいじゃないか」と思う向きもあるだろう。石垣島に住む台湾系の人が
「台湾人だということは事実。堂々としていればいい」
と語るのを聞くことはあるし、
「もっと前に出てほしい」
と励ましの気持ちを込めてハンセン病の回復者たちの背中を押そうとする人もいる。確かにそういう時代になっているのだと思うが、かつて暴力や蔑みの視線・行為にさらされた経験を持った身にはそうはいかないというものがあるのであろう。
「『台湾出身です』と言った時、相手からどんな反応があるか分からないのが怖いんです」
というTさんの言葉は、このような文脈から聞き取られるべきなのだと思う。Tさんに、Sさんと私のやりとりを話してみたところ、
「そういうふうに思っている人、ほかにもけっこういると思いますよ」
と言った。
かつて八重山には、台湾系の人たちと非台湾系の人たちが鋭く対立した時代があった。その後、関係は好転していき、台湾由来のものが市民権を得て、八重山オリジナルとして扱われるようになってきた。そうしたこともあって、私のインタビューに応じ、私が記事を書く際にご自身の名前を明らかにすることに同意してくださる台湾系の方は多い。取材が順調に進むことは珍しくなく、ともすれば、台湾系の人はだれもが快く取材に応じて下さるものと思い込んでしまう。TさんやSさんと交わした短い対話が示しているのは、しかし、ほんとは、台湾系と非台湾系の間には好転せずに残っている部分があるという事実である。石垣島のハンセン病史がまざまざと見せつける、島の中に現存する断裂と言い換えてもいい。見ずに放っておくわけにはいかないし、なかったことにしておくことにもできないのである。
TさんもSさんも、島で普通に暮らしている。ひっそりと息をひそめているわけではなく、一人の生活者として当たり前の生活を送っている。うちに秘めた密度は濃ゆいのに、無色透明のように存在しているので、その濃度にはなかなか気付けず、ついうっかりと忘れてしまったりするのである。