台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

援農隊で与那国を支援 追悼・藤野雅之さん

 与那国島のキビ刈り援農隊を組織した藤野雅之さんが亡くなった。2022年6月21日付「八重山毎日新聞」9面によると、17日に都内で亡くなったそうである。80歳だった。共同通信記者として与那国島を訪れたことをきっかけとして島の農業を支援してきた人である。取材者として八重山を訪れる人は多いが、記事を書いたり、番組を流したりした後も八重山との付き合いを続けることはできそうでできないものである。藤野さんは取材を終えた後も実践者としても島とかかわり続ける稀有な存在であった。

 

花蓮市を訪れた藤野雅之さん
与那国町との姉妹都市提携25周年を記念した訪問団に同行して台湾入りした

=2007年10月4日、台湾花蓮市花蓮

 

復帰と日台断交

 

 援農隊が発足した経緯を調べてみると、沖縄の本土復帰と日台断交が関係していることがわかってくる。

 1960年代以降、復帰前の沖縄では台湾の人々を労働者として雇い入れていた。「パイン女工」という言葉を聞いたことがあるかもしれないが、これは沖縄のパイン工場で働く台湾の女性労働者のことを示す言葉だ。実際に働いていたのは女性だけではないのだが、おそらく男性目線で作られた言葉なのであろう。一方、台湾の労働者は製糖分野でも働いている。与那国島では刈り取りを行う労働者が導入され、1966/67年期から70/71年期までは各期に男女合わせて40~55人が働きにきていた。これが71/72年期には27人に減る(琉球製糖株式会社40周年記念誌」1992年、165ページ)。

 注意しておきたいのは、1972年に日本と台湾中華民国の外交関係はがらりと変わり、断交に至るということである。

 沖縄の製糖分野で働く労働者にはどのような変化が起きたのか。平岡昭利氏が1978年に論文としてまとめているので、引用しながら振り返ってみよう。

 まず、外国人労働者の雇用については、沖縄復帰対策要綱により、従来通り雇用することができるようになった。しかし、南大東島では、1972年9月の日台断交によって台湾からの導入がストップしたという。その後、1973年になると、代わって韓国人労働者が導入されることになった。(平岡 1978:322-323)

 再び「琉球製糖株式会社40周年記念誌」に戻ると、与那国島では、72/73年期には台湾の人たちが働きにきていたようだ。この点は南大東島の状況とは異なる。そして、73/74年期に初めて韓国から工場労働者が44人、74/75年期には49人がやってきた。八重山ではほかに西表島と波照間でも韓国の労働者が働いている。

 

サトウキビジュースのスタンド
サトウキビを焼いた後、皮を剥いて絞る

=2015年1月11日、台湾新竹県北埔

 

「誠実さ」

 

 藤野さんは1975年に与那国島を訪れ、キビ刈り援農隊に動いていく。沖縄の施政権が本土に返還され、外国人労働者を雇うことができる環境も早晩変化するであろうという時期だということが理解できると、日本国内で労働者を確保する策として援農隊がスタートした背景がよりくっきりと浮かび上がる。藤野さんはこうした事情はもちろんご存じだったであろう。ご著書の「与那国島サトウキビ刈り援農隊―私的回想の30年」(ニライ社、2004年)が手元にないため、失礼を承知で、わたくしなりの調べで書かせていただいた。

 

 2015年、藤野さんは八重山のパイナップルにまつわる台湾の人々のエピソードを描いたドキュメンタリー映画「はるかなるオンライ山」をご覧になり、私にメールをくださった。そこには、台湾の人たちの「誠実さ」について書かれていた。台湾にせよ、援農隊を送り出す北海道にせよ、島の外にいる人たちと誠実に向き合うことが島の自立につながるということをおっしゃりたかったのではないかと思う。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。

 

参考文献

琉球製糖株式会社40周年記念誌』1992年

平岡昭利「南大東島における甘蔗農業への外国入労働力の導入と展開」(『地理学評論』51-4、318~326ページ、1978年)

 

訂正)

平岡昭利氏のお名前の表記に誤りがありましたので、訂正しました。(2022年6月21日14時)