台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

世の中、急には変わらないが・・・

 私からは、オレンジ色の光が見えるらしい。10年ぐらい前、特別支援学校に勤務している知人からそう言われて、うれしくなった。

 その学校に通っていた男子生徒のT君は、多くの場合は人とうまく接することができないのだが、例外的に何人かの人にはにっこりと笑い、肯定的な意志を自ら示してくる。私はその数少ない何人かの中に含まれていた。私としては、T君と特段親しく接した覚えはない。しかし、まちのどこかでたまたま顔を合わせたり、私がその学校へ取材にいったときにキャンパスで偶然出会ったりといったときに、T君は私ににっこりと笑いかけてくるのだ。

 私の目には、T君から何か特別な色が見えるわけではない。オレンジ色とそうでない人というふうに世の中の人々の姿が色分けされているT君にとっては、人びとから色を感じ取ることができない人びとはどのような存在に見えるのだろうか。と、ここまで書いてみて思い違いをしているかもしれない私自身というものに気付いた。人々から特定の色を感じ取ることができる人が実は大多数なのだが、みんな、そんなことはおくびにも出さずに暮らしているとしたら。私のような少数派には、目印代わりとなるオレンジ色の光を放つ仕掛けが埋め込まれ、T君はその色に反応してにっこりと笑いかけていた・・・・・

 信田敏宏著「「ホーホー」の詩、それから ―知の育て方― 」(出窓社/2018年)を読んだ。その読後感を小文にまとめてからしばらく経過した今、私の頭のなかに広がってきたのは、このオレンジ色にまつわる風景である。

 

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2008年7月10日、沖縄県石垣島の御神崎(松田良孝撮影)

 

 小文というのは以下のようなものである。定期コラム「不連続線」には、以下の原文を制限の文字数まで圧縮して掲載した。

 

興味あること徹底的に

 

 ダウン症の娘(15)を育てる父親が書いた「『ホーホー』の詩、それから―知の育て方」(出窓社、2018年)を読んだ。10歳の時、大好きなフクロウを題材に「ホーホー」という詩を書き、コンテストで入賞したダウン症の信田静香さんの父、敏宏さん(50)=京都市=が、知的障がいのある人が学ぶ意味について切々と書きつづり、知識や教養の大切さを問いかけている。

 

 読み進めていくうちに見えてくるのは、娘が豊かな生を送れるようにと、信田さん夫婦が工夫を凝らし、出来得る限りの時間を費やす姿である。日々の学習では、静香さんは、母の知美さん(48)が自作した問題プリントを学校へ持参して取り組み、帰宅すると、知美さんと一緒に学習に取り組む。強いられて何かをするわけではない。「苦手なこと、興味のないことを学ぶのではなく、興味のあることを徹底的に学ぶということである。結局、これが一番楽しいのではないだろうか」という著者の言葉が、学習のスタンスを物語る。「一言で言うと、興味を持っていることを教えると学習が進みやすいのである」という言葉に相づちを打たない人をあまりいないだろう。

 たとえば、英語の場合、日本の昔話を英語で読みながら学ぶ方法が紹介されているのだが、その際に取り入れたのは娘がもともと好きだった「笠地蔵」などの作品である。母親がイラストを取り入れながら自作したプリントを教材にして、声に出して読む練習をしたりする。

 

娘向けにカスタマイズ

 

 本書は、筆者が知美さんから聞いた話に分析を加え、実例を提示しながら進んでいくが、目を引くのは静香さんと知美さんが一緒に手作りしたというオリジナルの教科書やプリントの数々である。知美さんは「手先、視覚、心、耳を使った学習」にこだわりを持っているという。話を聞くだけでなく、絵や写真を見ること、感動や納得、驚きといった気持ちの動き、本や紙芝居を作るなど指先を使うことを学習に取り入れ、「あらゆる感覚を使うことで、それぞれの弱い部分を補うことができる」というのだ。どのようにすれば娘は学びやすいのか、逆に集中が切れてしまう方法はどのようなものなのかといった個性に合わせて、オリジナルの学習方法を培ってきたというわけである。

 こうした学習の延長線上の話として、静香さんは知美さんとふたりで写真を切り貼りしながら手作りの本をつくり、それを基にして今度は自分で問題プリントをつくるということし始めている。出題者と回答者が交代し、知美さんが問題プリントに回答し、静香さんがまる付けをしたり、その回答にコメントしたりといったことをするのだ。

 

心折れないためにも

 

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 筆者が妻とともにここまで娘のために家庭学習を充実させているのにはわけがある。進学先の支援学校中学部で教科学習の時間がなくなり、「学校が考える『生きる力』のなかには知識や教養を身につけることは入っていないようである」と思えてきたのだ。筆者は「知識や教養を身につける機会をもっと与えるべきであろう。教育をすることが基本中の基本である学校が、職業訓練の場であってはならないと考えている」と述べる。これは、働くために必要な体力やスキルを身につけるといったことの必要性を軽んじることを意味しない。「働くだけの日々では、誰でも心はいつか折れてしまう。働く時間と同じくらい、いやそれ以上に働いていない時間が大切なのではないだろうか。つまり、余暇の時間をどう過ごすかということも、働くことや人生に大きな影響を与えるのである。(中略)その時にそれらを楽しめる知識や教養があれば、より心豊かに、より有意義な時間を過ごせるのではないだろうか」。

 筆者のこの問いかけは、知的障がいの有無とは無関係に共感を呼ぶのではないか。知識や教養があれば、より心豊かに有意義な時間を過ごせるというこのメッセージには普遍性がある。

 

積み重ねて

 

 本書は、筆者が知的障がいを持つ娘と向き合うことによって生まれた。このバックグラウンドに縁遠さを感じる人もいるだろう。その点は筆者も認識しているとみえて、次のように述べている。「知的障がいのある人たちが学習意欲を持っていること、知的好奇心があること、そして物事を理解し、考える能力を持っていることを、もっと社会に知ってもらうことは大切であると考えている」。さらに「周りの人びとの認識の変化こそが、障がいのある人とない人が共に生きられる“インクルーシブ社会”の実現への一歩だと考えている」と。

 2020年の東京五輪パラを控え、「インクルーシブ」という言葉は「ダイバーシティ」とともにますます重視されていくに違いない。大会組織委員会は「東京2020大会が、障がいの有無に関わらず、すべての人々にとってアクセシブルでインクルーシブな大会となるよう様々な取組みを推進しています」としている。ただ、人びとの考え方や社会の仕組みの改変は一朝一夕にはならない。筆者も本書を一夜漬けのようにして書いたわけではなく、静香さんと向き合ってきた14年間の積み重ねとして著したである。

 明日は、年が改まるその最初の日である。新年が始まったからといって世の中は急には変わらないが、変えていくための積み重ねをとぎれさせずに続けていくことはできる。