小学5年生で台湾へ
2016年1月18日に亡くなった石垣英和さんへの追悼として、英和さんのライフヒストリーに触れておきたい。ご紹介するのは2007年3月に台湾とのかかわりについてお尋ねしたインタビューに基づくものでる。
石垣島字石垣出身の英和さんは石垣国民学校(現在の石垣小学校)の5年生だった1942年夏に台湾へ渡っている。3人いた姉のうち、2人が当時すでに台北にいて、その世話になりながら近くの建成国民学校に通う。建成国民学校の校舎は、現在は美術館の台北当代芸術館として使われており、1人50元(約170円)の入場料を支払えば、内部に入ることも可能だ。
建成国民学校があった地域は台北市の中でも沖縄出身者が比較的多く暮らしていた地域である。英和さんは、沖縄籍の証明書にも記されている御成町から学校に通った。1944年になると、そこへ両親が疎開してくる。
工業学校に入学したが・・・
建成国民学校6年生のときに台北州立台北工業学校を受験し、1944年から通うことになった。
英和さんが通っていたころにあった校舎のうち、鉄筋コンクリート造り2階建ての校舎は学校の歴史を展示した「校史館」として活用されている。「紅樓」の名でも呼ばれ、台北市政府は1998年、「台北科技大学の歴史上、また、台湾にある20世紀初頭の学校建築という観点から、歴史的・文化的な価値」があるとして古蹟に指定した。台湾政府文化部文化資産局のホームページによると、大正年間に当たる1918年の建設である。
台北工業学校に入学した英和さんだが、「まともな授業は1年生のときの1年間だけ。あとはずっと軍事教練」と語っている。沖縄と同様に、台湾も1944年10月以降は連合軍の攻撃を頻繁に受けるようになり、台北工業学校が攻撃されることもあったという。
「日本人だから」「沖縄の人だから」
戦争が終わると、「日本人だから」ということで台湾人から制裁を加えられたこともある。そのため、前歯を2本折るけがもした。しかし、しばらくすると、「沖縄は同胞」と言われるようになり、「台湾人の態度ががらっと変わった」。
英和さんのこの体験は興味深い。「日本人」の一人として台湾人の制裁に遭い、「日本」とは異なる「沖縄」の人として台湾人から友人として扱われるようになったのである。台湾のなかで沖縄出身者が担わされていた2つの側面を、英和さんの体験は物語っているのだ。
引き揚げは基隆から。LSTでいったん宮古に運ばれ、ポンポン船に乗り換えて石垣へ戻ってきた。1946年4月のことである。
英和さんの台湾体験は3年半余りで終わった。