台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

機転に感謝

書庫へ

 日曜日の図書館は利用する人は多い。そこで働くスタッフにだって週末の用事というものがあるわけだから、限られた人数でシフトをやりくりして出勤しているに違いない(あくまで私の予想)。ということもあって、あまり無理なお願いをしてはいけないと思っていたのだが、「沖縄県統計書」で宮古の貿易量を年次ごとにチェックするということをどうしても済ませてしまいたくて、カウンターでお願いしてしまった。

 お困りになったのではないか。

 要望は明確に伝えたつもりではあるが、それは私が一方的にその「つもり」になっているだけかも知れない。どうなることかと思って待っていると、果たして、目的の資料を持ってきてくださった。さすがだ。

 目指すデータは「勧業」または「産業」のところに掲載されているのだが、ただ、あいにくと、発行年によってはデータベース上ではそうした分け方がなされていないケースがある。司書が「上司の許可を取ったので、書庫へ来てくださいませんか」と声をかけてきたのはそのためである。直接手に取り、必要な資料を自分で探してほしいということである。

 こうした機転もあって、私は例外的に書庫に入ることを許され、目的のデータを手に入れることができた。

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宮古の台湾人

 このところ、宮古に住んでいた台湾人の足跡を調べている。植民地期に宮古にやってきた台湾人のなかには米穀商をしていた人がいることが確かめられているのだが、そもそも、台湾から宮古に米が移出されるようになったのはいつなのかが分からなったのだ。

 沖縄県統計書にそのすべての情報が載っているわけではなく、漲水港の移輸出入に関するデータがない年もある。それは仕方がないことなのだが、今回の「書庫入り調査」によって、沖縄県統計書に依拠するならば、どんなに遅くても1915年には宮古に台湾米が移入されていた」ということを確認することができた。データには虫食いのところがある。県立図書館辺りが所蔵している資料から新たな数字が出てくれば、さらに確度は高くなるだろう。

 ちなみに、今回の調べものでは、国立台湾大学図書館のウエブサイトにもお世話になっている。検索に耐えうるデータをちゃんとつくってくれる人がいて、宮古にも台湾にも縁がない私が、調べものをすることができるわけだ。

相互補完

 これまでのインタビュー調査で「宮古に来た台湾人は、米の商売をしていたよ」と聞かされているので、この言葉をなんとかデータで補強したいと思う。

 誤解のないように念のために書いておくと、インタビューで語られた言葉を疑っているわけではない。人の記憶は当てになるけれども、統計が間違っていないという保証はないとも言いうる。インタビューも大事、データも大事。補い合ってナンボのものである。