仲嵩嘉尚
2016年3月30日に沖縄県立博物館・美術館で「人びとの記憶と記録に残るラジオ放送」というシンポジウムがあり、三島わかなという県立芸術大学の人が沖縄のラジオ放送について発表していた。冒頭のクイズで、沖縄で最初にラジオ受信機が設置された(個人として設置したという意味だったと思う)のはどこかという問題があった。
答えは「与那国島」。
なるほど、と思って説明を聞いていると、受信機を設置した人物というのは仲嵩嘉尚(なかたけ・かしょう)だということで、もう一度、なるほど、と思った。
医師として、村長として、リーダーとして
戦争が終わってすぐのころ、与那国島を台湾に帰属させようと与那国島の一部の人たちが運動していたことがあったのだが、メンバーたちに推されて代表を収まった人物として、私は仲嵩嘉尚のことを記憶している。1886―1963。医師であり、1941年から1944年まで与那国村長を務めていたこともある。自宅の一室で、台湾側への働きかけについてメンバーが話し合いをしたこともあったという。
情報センター
あらためて調べてみると、仲嵩嘉尚の名前は1930年4月13日付の「先島朝日新聞」2面に掲載された社告にもみることができる。
社告
今回与那国島に本社支局を設置いたし、与那国村の文化発展に尽碎いたしたいと思いますからご後援下さいまして健全なる発育を遂げしめるよう切にお願いいたします。
先島朝日新聞社
与那国支局長
仲嵩嘉尚
(旧漢字や仮名遣いを適宜改めてある)
仲嵩嘉尚は島の情報を文字にして先島朝日の読者に届ける役割も担っていた。
こうしてみると、与那国島に台湾を帰属させようという運動のリーダーに仲嵩嘉尚が推されたのは、仲嵩が知名士だったからということばかりではなく、情報という点でも島のなかで特異な立場にあったということが関係していたのかもしれない。実際、このころの与那国島は台湾との間で行き来が続いており、台湾側からもたらされた情報が仲嵩嘉尚の自宅に持ちこまれるということもあっただろう。
情報は人を寄せ集める接着剤として振る舞うこともある。戦後の混乱で停波していたとしても、仲嵩嘉尚のポジションは島の情報センターとして定着していたのではないか。