基隆
深い懐にいくつもの巨艦を浮かべる台湾の港町。
日本が台湾を統治していたころ、石垣島など八重山のあちこちから大勢の人たちもここから台湾に上陸し、働きに、進学にとそれぞれの目的に向かって出発し、あるいは、この港町で暮らしました。石垣島からみると、台湾は約250キロしか離れておらず、那覇よりもずっと近い。それ故に、大勢の人たちが台湾との間で往来の糸を紡いできました。
そのなかには、石垣島の字新川(あらかわ)からやってきた嵩本(たけもと)さん一家の姿もありました。
ほとんど湾生
嵩本安意(あんい)さんが1937年12月24日に出生した場所は石垣島の字新川だが、これは母、伸(のぶ)さん(旧姓後嵩西〈しいたけにし〉、1912―1997)がその兄の出征に合わせて台湾から一時的に帰郷し、そのまま出産したからそうなったのであって、安意さん自身は「台湾でお腹の中に入って(伸さんが安意さんを身ごもり)、こっち(石垣島)に来て(出生した)。台湾生(たいわんせい)みたいなもんですな」と語る。
安意さんはゼロ歳の時期を約8カ月間石垣島で過ごすと、伸さんに連れられて、基隆に戻った。基隆では、やはり字新川出身の父、正宜(せいぎ)さん(1912―1998)との3人暮らしである。
出稼ぎ
正宜さんも伸さんも、結婚前から台湾で働いている。
正宜さんは1926年3月に石垣尋常高等小学校高等科を卒業し、同じ年の11月に基隆に向けて石垣を離れた。基隆では徳丸質屋という質屋に住み込み、1939年6月まで13年近く勤めた。正宜さんはこのあと、台北に引っ越しているので、基隆暮らしも13年近くということになる。伸さんと挙式したのは徳丸質屋の2階であった。
伸さんは19歳のころに渡台し、台北にいた長崎県人の歯科医のところで3年間、女中奉公を行った。安意さんによると、この歯科医の妻が料理上手で、伸さんはここで料理の腕を磨く。辞めて石垣島に帰るときには着物を何枚ももらい、これが正宜さんと一緒になるときの嫁入り道具になった。
アジア太平洋戦争末期にはこの着物が活躍することになるのだが、それは後述する。
沖縄一のグループ
2人のように石垣島から台湾へ向かう人は当時としては珍しくなかった。
1935年の人口統計からみてみよう。安意さんが生まれる2年前である。
1935年12月末、台湾に暮らしていた沖縄出身者は3930人で、このうちの1454人(37.0%)は石垣島など八重山の出身者で占められている。同じ年の国勢調査人口との比較でも、安意さんの出身地を含む旧石垣町は23.11‰に当たる343人が台湾で暮らしていた。
この割合を八重山全体でみると、42.63%に達し、沖縄県内で最も多い。日本統治下の台湾で暮らす沖縄出身者のなかで、八重山出身者は最も大きなグループを形成していたのである。
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※この記事は嵩本正宜(1995)「蟻の詩」(ミル出版,石垣)を参照しています。
※嵩本安意さんは2023年1月22日に亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。