防空訓練
1944年4月に建成国民学校の1年生になった嵩本安意(たけもと・あんい)さん=石垣市字新川出身=は、母、伸さんが防空訓練でバケツリレーをしていたことを覚えている。火が付いて燃えていると想定した家を決め、はしごを運んで走り回り、水をかけていく。安意さんは2つ下の弟と4つ下の妹をおんぶしたりして面倒をみながら、伸さんたちの様子を見ていた。
台湾が連合軍の空襲を受けるのは1943年11月のことだが、本格的な攻撃にさらされたのは1944年10月12日から17日にかけて行われた台湾沖空中戦(台湾沖航空戦)である。
安意さんが建成国民学校在学中に台湾の状況は激変したことになる。
みそ甕を天母へ
翌1945年1月、嵩本さん一家はほかの郵便関係者とともに台北市上奎府(かみけふ)町から天母に疎開する。その年の1月14日に2番目の弟が生まれてから1週間ほどしかならない時期の転居だったという。温泉宿を接収したという瓦葺の建物で、郵便関係者の家族が共同生活を送ることになった。嵩本さん一家は、中国大陸にいた父、正宜(せいぎ)さんを除くと、5人になっていた。
天母に移った後も、伸さんは安意さんを連れて上奎府町通いをしていた。安意さんはときには幼い弟をおんぶしたりしながら、伸さんの後を付いていった。
「おふくろは、いろんな道具とかみそ甕、蒸籠とかを運ぶんですよ。『どうしても生活に必要だ』と言って。みそを自分で作ってみたりね」と安意さん。伸さんは元の住まいがあった上奎府町から天母まで荷物を頭に載せて運んでくるのである。安意さんは「80斤(48キロ)ぐらいは載せていたのではないか」と話す。これが3月まで断続的に続いた。
士林に立ち寄る
楽しみもあった。
今や台湾屋台の代名詞的存在となった士林で、ちょっとしたものを食べさせてもらえることがあったのだ。再び安意さんの回想である。
「牛汁のようなものを食べました。母が好きで、自分も食べたいから、手伝いのご褒美のようにして食べさせてくれたのではないでしょうか。飴を伸ばして切って白い粉をまぶしたようなのも食べました」
帰宅する段になると、伸さんは安意さんに言って聞かせることがあった。
「弟や妹には言うなよ」
士林でおいしいものを食べてきたことは黙っておけという意味なのだが、安意さんも子どもだった。家に帰りつくなり、「きょうは何も食べてないよ」とわざわざ言ってしまい、弟や妹から「あ、何か食べたな」と悟られてしまう結果に。安意さんは自分の失敗に気付いたが、後の祭りである。「ばれたかぁ」と頭を掻いた。
もっとも、伸さんは帰宅を待つ子どもたちへの土産も忘れていなかった。ようかんなどを買って帰ったのである。
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※この記事は嵩本正宜(1995)「蟻の詩」(ミル出版,石垣市)を参照しています。台湾での空襲については張維斌(2015)「空襲福爾摩沙」(前衛出版社,台北)と甘記豪(2015)「米機襲來」(前衛出版社,台北)を参照しました。幼少のころの嵩本安意さんの写真はご本人の提供。