台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

ニッケと「再会」する

伊江島から西表島

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 大阪の鶴橋で撮ってきた写真を整理していて、「ニッケ」という看板がかかっているのに気付いた。角地にある毛糸屋さん。店構えが悪くないなと思ってシャッターを切ったのだが、通りすがりのことだったし、毛糸を使って何かをするという習慣もないので、細かいことはチェックしないままになっていた。

 「ニッケ」のことを知ったのは2011年に西表島で移民の取材をしていたころのこと。そのなかに、若いころ、千葉の市川で働いていたことがあるという方がいて、私はその場所に行ってみたくなり、訪ねていってみると、「ニッケ」と深いかかわりのある場所だったのである。

 この方は伊江島出身で、40代前半で夫や子どもとともに西表島にやってきた。沖縄が復帰する10年前のことである。

千葉、和歌山、関西

 伊江島の尋常高等小学校尋常科を卒業した後、親戚を頼って上京し、千葉の市川にあった共立モスリン中山工場というところで働き始める。その後、和歌山にあった別の工場に移り、さらに関西方面へ。その後、伊江島に帰郷するのだが、そこで戦争を体験し、子どもを連れて今帰仁疎開している。終戦後、島に戻れたのは1947年3月のこと。島には米軍の駐留し、耕せる畑が十分に手に入らなかったことから、ボリビア行きを考えたが、最終的には八重山へやってきたのである。

 移動経路を整理すると、伊江島千葉市川―和歌山―関西―伊江島今帰仁八重山となる。

移動と移動

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 私は共立モスリン中山工場があった場所に立ってみたくて、市川のその場所を訪ねていったのだが、そこはニッケのものになっていた。「ニッケ」とは日本毛織株式会社の通称。中山工場はニッケに引き継がれていた。2012年1月のことで、よく晴れている分、冷え込んだ午前中のことだった。

 私にとってニッケは人の移動と密接にかかわる存在。やはり、人の移動と切っても切れない関係にある鶴橋でそのニッケに「再会」したことに、若干の縁を感じる。

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