大阪の鶴橋で撮ってきた写真を整理していて、「ニッケ」という看板がかかっているのに気付いた。角地にある毛糸屋さん。店構えが悪くないなと思ってシャッターを切ったのだが、通りすがりのことだったし、毛糸を使って何かをするという習慣もないので、細かいことはチェックしないままになっていた。
「ニッケ」のことを知ったのは2011年に西表島で移民の取材をしていたころのこと。そのなかに、若いころ、千葉の市川で働いていたことがあるという方がいて、私はその場所に行ってみたくなり、訪ねていってみると、「ニッケ」と深いかかわりのある場所だったのである。
この方は伊江島出身で、40代前半で夫や子どもとともに西表島にやってきた。沖縄が復帰する10年前のことである。
千葉、和歌山、関西
伊江島の尋常高等小学校尋常科を卒業した後、親戚を頼って上京し、千葉の市川にあった共立モスリン中山工場というところで働き始める。その後、和歌山にあった別の工場に移り、さらに関西方面へ。その後、伊江島に帰郷するのだが、そこで戦争を体験し、子どもを連れて今帰仁に疎開している。終戦後、島に戻れたのは1947年3月のこと。島には米軍の駐留し、耕せる畑が十分に手に入らなかったことから、ボリビア行きを考えたが、最終的には八重山へやってきたのである。
移動経路を整理すると、伊江島―千葉市川―和歌山―関西―伊江島―今帰仁―八重山となる。
移動と移動
私は共立モスリン中山工場があった場所に立ってみたくて、市川のその場所を訪ねていったのだが、そこはニッケのものになっていた。「ニッケ」とは日本毛織株式会社の通称。中山工場はニッケに引き継がれていた。2012年1月のことで、よく晴れている分、冷え込んだ午前中のことだった。
私にとってニッケは人の移動と密接にかかわる存在。やはり、人の移動と切っても切れない関係にある鶴橋でそのニッケに「再会」したことに、若干の縁を感じる。