八重山毎日新聞に勤務していたころ、取材でお世話になったお二人の方が2016年12月、相次いで亡くなった。いずれも西表島の方で、お一人は、大原にお住まいだった忘勿石之碑保存会長の平田一雄さん。1933年10月18日生まれ。12月3日没。享年83歳。もうお一方は、西表島大富の大谷用次さん。1914年9月29日に竹富島で生まれた後、台湾に渡り、一時帰郷した後に今度は南洋群島へ。アジア太平洋戦争で多くの犠牲者を出したテニアンでお嬢さんを一人失っている。西表へ渡るのは戦後竹富に引き揚げてからのことで、移動続きの末に大富がついの住み家となった。12月17日没。享年102歳。
期せずして、お二人とも「移動」と深くかかわった。平田さんは、戦時下の移動によって犠牲になった人たちと弔い、大谷さんは身を以て八重山と移動の深いかかわりを示された。
忘勿石之碑で説明を行う平田一雄さん
=2011年3月19日、西表島で松田良孝撮影
「役立つかどうか」なのか
何かの役に立つということは悪くないことで、役に立っていると認められるのは誇らしいことである。そして、こうした事柄は人々の目を引きやすい。八重山にやってきた台湾の人たちがパイナップルと水牛を持ち込み、それが八重山に定着して特産の農産物となり、観光資源として定着したことが知られるようになったのはその一例である。
台湾農業者入植顕頌碑で記念撮影する台湾からの人たち
=2016年10月21日、石垣島の名蔵ダムで松田良孝撮影
しかし、八重山という土地の成り立ちを考えた場合、ある特定の移民ばかりに着目したのでは移民によって成り立ってきた社会の在り様をつかみ損ねるおそれがある。
ふたつのことに留意しておきたい。
記録されにくい移民
ひとつは、八重山の外からやってきた人たちの存在である。このなかには、台湾からやってきた人たちを含むが、それ以外にも八重山以外の県内、本土の各地などさまざまな地域を含む。なるほど確かに、琉球政府が1960年前後に実施した計画移民はよく知られているし、1950年前後に宮古や大宜見からやってきた人たちの存在は計画移民に先んじた戦後八重山移民の先駆けとしてよく知られている。
では、たとえば、フィリピンからやってきた人たちはどうであろうか。フィリピンからやってきた人たちが暮らしている世界各地のカトリック教会がそうであるように、石垣島でもカトリック教会にはフィリピン人の姿が目立つ。教会の運営に積極的にかかわっているケースもあり、信仰の自由の実践や、信仰に関するより多くの選択肢の準備といった点で欠くべからざる役割を担っている。
ここで言いたいのは、役に立っているから記録されるべきだということでは無論ない。台湾の人たちと同じように役に立ち、県内のほかの地域からの移民と同じように社会性があるにもかかわらず、記録されるケースが少ないというのはどういうことなのかと投げかけたいのである。
「引っ越し」としての移民
もうひとつは、八重山のなかで行われる移民である。最近に八重山においては、石垣島の市街地に人口が集中する現象が起きているが、つまり、こうした人の移動、むしろ、引っ越しと言っていいこれらの現象はどうとらえるべきなのだろうか。竹富町の島々や与那国島で行われる伝統的な祭祀についていえば、いったんは島の外に出ていった人たちがその祭祀のために島に戻ってくるということは珍しくない。あくまで祭祀に軸足を置いているのであり、島の外に居を構えるのは仮の姿だと考えてもいいかもしれない。しかし、島々の日常にはこれらの人々は姿を現さず、過疎によって生じる労働力不足など島々が抱える課題からは距離を取らざるを得ない。
与那国島の学校に勤務する教員から聞いた話だが、学期の途中に突然転校してしまう子どもが時々いたという。年度の代わり目に合わせて、あらかじめ準備をしたうえで島を出ていくというのならいざ知らず、である。この教員の目には、暮らしが立ち行かなくなり、島の外に働き口を求めざるを得なくなったようにみえたという。石垣島の市街地への人口集中の陰にその周辺の島々の疲弊があるという直線的な思考には慎重にならざるを得ないが、人々の移動が暮らしに影響を与えていることは事実とみていいようである。