相前後して与那国へ
「キング賞」をめぐって取り違えのあった迫田貞熊(さこた・さだくま)と発田貞彦(ほった・さだひこ)。
二人の履歴を確認しておこう。
年齢は七つ違いで、与那国島へやってきた時期は数年の差。二人は相前後する形で生まれ、来島している。
宮崎・目井津より
出身地にしても、詳しくみてみると、浅からぬかかわりがある。
貞熊が平島にいたころ、1907年ごろに目井津の崎村伝蔵氏が所有する帆船が平島に寄港したという。貞熊はこの船にそのまま乗り込み、1908年にこの帆船で与那国島に来ているというのだ。その後、兵役を終えると、再び目井津に向かい、そこで妻、やえのと結婚して、与那国島にやってきたというのだ。
久部良では、そろって村会議員を務めていたこともある。
農業に転身したわけ
二人はその後、少し違ったルートをたどっていくことになる。
すでに引用した「海南時報」の記事に「目下農業に従事」とある。漁業で表彰された人物が農業に転じたのである。そこにどのような事情があったのかを推測する手掛かりが、迫田貞熊の次男、貞男氏の著書『古稀を迎へて』にあった。貞熊が漁業から手を引く要因として挙げられているのは次の2点である。
(1) 久部良でカツオを捕っても、発田以外に販路がないため、取引価格はは発田の言い値であった。
(2) 漁船の燃料も発田から仕入れとなり、採算が取れなくなった
この見方はあくまで迫田側からのものであり、発田側からは別の見方ができるに違いない。漁業から撤退した背景を、迫田側では発田との関係に見出そうとしているという点を押さえておこう。
ソロモン海で消息絶つ
迫田貞熊はその後、台湾の蘇澳へ移り、突き棒船やマグロ船の機関長になったというから、南方澳漁港を拠点に水産業に従事することになったことになる。与那国には1943年に帰島した。戦時中は、軍が徴用した小型タンカーに乗り組み、ソロモン海で魚雷を受けて消息を絶った。
貞彦が1971年まで生きたのと対照的に、戦後になって人生を歩み直すことができなかった不運も、貞彦と取り違えられる遠因になったのかもしれない。
※ 迫田貞熊については迫田貞男『古稀を迎へて』(私家版、1992年、トライ社、鹿児島)を参照した。