もうひとつの土地公祭
2020年の土地公祭は、新型コロナウイルスの影響で縮小を余儀なくされた以外に、新たな動きがあった。個人の土地公廟を整備する作業が進み、完成に先駆けて神事が行われたのである。
この土地公廟は、石垣島で暮らす台湾2世の王田(きみた)達夫さん(1948年生)が昨秋から石垣市登野城バラビドーの敷地で建立を進めているものである。王田さんの母、真子さん(台湾名・王劉氏真)は台湾中部・員林の出身。戦後間もなく、名蔵御嶽にあった石を譲り受けて自宅の敷地に飾り、土地公を拝むよすがとしてきた。台湾系の人たちが集まって土地公を拝むのとは別に、毎年の旧暦8月15日に個人で土地公を拝み、息子の達夫さんもそれを引き継いでいる。
王田さんの廟は、鉄筋コンクリート造りの本体はすでに完成し、名蔵御嶽から譲り受けた石も安置してある。本来ならば、台湾で土地公の神像を手配して安置するところだったが、新型コロナの影響で海外への渡航が大幅に制限されており、現在は作業を休止している。廟の飾り付けも、台湾へ直接出向いて手配することにしていたが、こちらも困難な状態だ。
今年の土地公祭で炉主(ローツー、年間を通じて土地公の神像と香炉を預かる役目)となった玉木茂治さん(1957年生)は、土地公の神像を王田さんの土地公廟に安置したい意向を示している。このため、琉球華僑総会八重山分会の総意が得られれば、2021年の土地公祭では、名蔵御嶽に代わって王田さんの廟で土地公祭が行われる可能性が出て来た。石垣島に台湾系の人たちが足跡を残してから約100年が過ぎてようやく、道教の神を祀った廟が土地公祭の舞台となるかもしれないのだ。その場合には、名蔵御嶽での土地公祭は2020年が最後ということになる。
紙銭もふんだんに
2020年の土地公祭では、名蔵御嶽での神事が済んだ後、参加者の多くが王田さんの土地公廟に移動してあらためて神事を行った。筆者は、名蔵御嶽での後片付けまで付き合った後、午前11時40分すぎに王田さんの土地公廟を訪問したが、すでにそのとき30人近い人が集まっていた。王田さんは例年、自宅で土地公を拝むほかに、名蔵御嶽の土地公祭も訪れているが、ことしは自身の土地公廟のほうに専念し、ほかの台湾系の人たちとともに準備に当たっていた。中華料理屋でよく見かける円卓のテーブル2つに供え物が捧げられていき、間もなくすると隙間は埋まった。お供えの基本となる丸ごとの鶏、豚肉、魚の三点セット(三牲)は少なくとも3組確認され、それ以外にも果物や菓子類などで円卓は華やかだ。
正午前には王田さんらが爆竹を鳴らして、煙の立った線香を手に待っていた人たちが拝みを始めた。祝いの花は3点飾られ、このうちの1点は台湾花蓮市の現元市長から。参加者のなかにコネクションを持っている人がいるとのことであった。台湾製の紙銭もふんだんに用意されていた。かつては、台湾と沖縄の間をフェリーで行き来しながら台湾の品物を商う人がいて、このいわゆる「担ぎ屋さん」たちが台湾製の紙銭や細長い線香、爆竹などの需要を満たしていたが、2008年6月を最後にフェリーの運航が停止したことで入手が難しくなっているにもかかわらず、である。
姿を現さない人も
「集まる」という点だけに着目するならば、八重山に住む台湾系の人たちは旧正月、十六日祭の墓参(旧1月16日)、清明の墓参(4月初めの日曜日)でも集まって顔を合わせるが、これらはいずれも八重山や沖縄で一般的に行われる行事であり、台湾系の人たちを特徴づけるものとはいえない。
土地公祭に対する理解を難しくしているのは、八重山に住む台湾系の人たちがこぞって土地公祭に参加しているわけではないという点である。筆者の観察では、八重山に住む台湾系の人たちは以下の4グループに分けることができる。
(1)土地公祭に参加する
(1-A)土地公祭だけに参加する
(1-B)土地公祭に参加し、自宅で個人的にも土地公を拝む
(2)土地公祭に参加しない
(2-A)自宅では個人的に土地公を拝む
(2-B)土地公を拝まない
このグループ分けに従えば、「石垣島の名蔵御嶽で開かれる土地公祭」として知られる神事は、(1)の人たちによって成り立っている。人数の多寡とは無関係に、土地公祭を行っているのは八重山の台湾系の人たちの一部だとも言い得る。開かれた場所で特定の神を拝む行事が行われるのは土地公祭だけという事情から、八重山に住む台湾系の人たちを特徴づける神事とみなされるのだが、そこに姿を現さない台湾系の人たちがいるという点を忘れてはならないだろう。
(つづく)
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