去年9月下旬に玉木玉代さんのところへ行った。玉木さんはいるにはいたが、テレビの前にあるいすに座ったまま眠り込んでいた。社長用のソファで子どもが遊んでいるうちにそのまま寝てしまったみたい風景だった。声を掛けるなり、肩を叩くなりすれば、すぐに起きて応対してくれただろうが、そのまま辞去した。
その3カ月後、2021年12月にまた玉木さんのところへ行ったら、同じいすに腰かけていた。今度はちゃんと起きていた。おしゃべりを始めてみると、例によって私はほぼ聞き役に回り、結局、1時間ほど過ごして帰った。
玉木さんと会ったのは、これが最後となった。
玉木さんの訃報に接して、ソファにすっかり背中を預けている老いた玉木さんの姿や、一方的にしゃべることが多かった玉木さんの語り口を思い出した。そうするうちに、喪失感がなんとなく和らいだ。
戸籍を取りに市役所へ
20年近く前、玉木さんに無理を言い、石垣市役所までご同行いただいた。私はそのころ、八重山地方で暮らす台湾系の人たちのことを取材していて、とりわけその国籍がどのように変わったのかに興味を持っていた。
沖縄の復帰と日台間の断交が相前後して起きた1972年という節目が、八重山に住む台湾系の人たちがまとまって日本国籍を取得する契機となったことはすでに知られている。台湾系の人たちが多く暮らす嵩田地区の地誌「嵩田 五〇年の歩み」(1996年)にその経緯がまとめられており、私は今もよく参考にさせていただく。
ポイントは、1972年よりも前に日本国籍を取得した人たちがいたということであり、玉木玉代さんはそのうちのひとりであった。
日本国籍の取得は法務省が官報に公示するので、探し当てることは可能である(現在はデジタル化され、検索システムも用意されている)のだが、私は、当事者である玉木さんにお願いして、戸籍謄本を取っていただいたのである。外国人が日本国籍を取得した時、どのような戸籍が作られるのかという点にも興味があった。
簡単に「戸籍」というが、その人の半生が書き込まれたプライベート情報の塊である。それだけに、日常的にしょっちゅう取り出して見たりするようなものでもない。こういう履歴書のような資料を見せてほしいという私の願いを玉木さんは受け入れてくださった。玉木さんの手元にご自身の戸籍謄本がなかったので、市役所で取っていただき、提供を受けることになったのである。
それぞれの台湾性
そのころから私は八重山に暮らす台湾系の人たちの取材を続けているが、それは、インタビューに時間を割き、写真や資料を提供してくださり、土地公祭や清明祭、旧盆行事などのたびに顔を出す闖入者を受け入れてくださったりする方たちがあってのことである。玉木さんはその代表格のおひとりであった。
ここで誤解してはいけないのは、八重山に住む台湾系の人がすべて玉木さんのように、自らのことを進んで語ってくださるわけではないということである。自分の台湾性を明らかにせず、時にはそれまでの人間関係を切断することさえして、台湾性を押し隠して生きている人もいる。
「八重山の台湾人とはこんな人です」
という説明をする時、だれかを代名詞的に取り上げることはできない。玉木さんはメディアで紹介されることがあり、よく知られた存在だが、それでも、八重山に住む台湾系の人たちを代表する存在とすることはできない。玉木さんが体現しているのは、台湾性はその人それぞれに固有のものであるということだ。八重山に住む台湾系の人たちは、自分のルーツとの距離をそれぞれのスタイルで測りながら生きている。
「籍はまだ台湾にある」
玉木さんに戸籍を取っていただいたころの私は、八重山の台湾系の人たちが自分を何者だと考えているのか、台湾人なのか、八重山人なのか、それともそれ以外の何者なのかといった点に関心を持っていた。この問題を考えるうえで、いつ、どのようにして日本国籍を取得したのかという点は重要であった。
1972年を契機とした国籍の取得であれば、沖縄社会全体が日本へ復帰し、その日本は台湾と断交するという環境がまずある。そのなかで、石垣島に住む台湾系の人たちは日本国籍を取るのだから、心の揺れ動きは相当なものであったのではないかといった具合に問いを立てていくのである。
玉木さんの場合はどうなのか。玉木さんは、1964年に家族そろって日本国籍を取得している。1972年直後の国籍取得と異なるのは、無国籍の人が日本国籍を取ったという形を取っていることである。
どういうことかというと、1972年のグループは、まず、中華民国(台湾)政府から
「あなたは中華民国籍を離脱しました」
という証明書をもらい、続いて、日本に日本国籍取得を申請するという手順を踏んだ。この証明書が手に入らず、日本国籍の取得を申請する前の段階で長く足踏みが続いていたところ、1972年に状況が一気に変化したのである。
これに対して、玉木さんたちは、台湾政府から国籍離脱の証明書をもらう手続きをスルーして、日本国籍の取得を申請し、認められた。
昨年12月の最後のインタビューで、玉木さんは
「うちなんかはあるわけ、台湾に」
と言っていた。台湾の籍を離脱する手続きを踏んでいないため、玉木さんの台湾籍は今も残っているというのである。これはどういうことなのか。非常に興味深い疑問を、玉木さんは残していった。
玉木さんの時代
玉木さんは、訪ねてくる人がいれば、あまり拒むことなく応対し、話を聞きたいとお願いすれば、だいたい聞かせてくれる。玉木さんをインタビューしたいと知人に相談されて、玉木さんに意向をお尋ねしたことが何度かあったが、断られたという記憶はない。
人当たりは確かにいい。しかし、それはあくまで見かけの印象である。何度も話を聞いていくうちに、けっこう厳しいことを言う人だということがわかってくる。「口が悪い」といってしまうと身も蓋もないが、実際、そういう面はあった。それが玉木さんという人であった。
ただ、玉木さんの個性が、生きた時代とまったく関係なくできあがったと思うのは、たぶん間違いだ。
確実に言えるのは、玉木さんが日本国籍を取得したころ、沖縄の本土復帰や日本と台湾の断交は見通すことができなかったということである。石垣島で暮らす台湾系の人たちは、永住権を持っている人もいれば、一時滞在者として短期的に滞在した人もいて、いつまで島で暮らせるかという条件は人それぞれであった。やっかみや不安、望郷などさまざまな感情が鬱積した時代といってもいい。琉球政府出入管理庁が目を光らせるなか、石垣島には台湾(中華民国)が領事サービスを提供する正式な窓口があったわけではなく、ストレスを抱えていたに違いない。
玉木さんをひとつのアイコンとして、たとえば「かわいいおばあちゃん」といった人物像を作り上げるのは、玉木さんと出会った人の自由である。玉木さんは喜んでくださると思う。私はといえば、玉木さんの人生が、どのような時代によって生きられたものだったのかがまだつかみきれていない。その手掛かりがほしくて今台湾にいるが、ようやく入口が見えたかどうかといったところである。
玉木さんが亡くなったことは悲しい。
生前、玉木さんはたくさんのお話を聞かせてくださった。本や書類ではなく、玉木さんというリアルな存在を基礎にしてものを考えることができる。玉木さんが生きた時代の感覚を追体験できるところまで到達することがせめてもの恩返しだ。