再来年は60周年
八重山では、旧盆の中日は明石のエイサーと決まっており、今年も見てきた。ステージであいさつをする人たちは「素晴らしい伝統」といった表現で明石のエイサーを称揚し、時折雨が降る天気にもかかわらず、会場は見物の人たちでにぎわっていた。今や全国区になった感のあるエイサー。本土でも運動会のプログラムに取り入れられていたりすると聞く。もともとは沖縄の旧盆で奉じられていたエイサーは伝播していく文化だ。八重山にももともとはなく、沖縄本島からやってきた戦後の移民たちが持ち込んだものである。明石では再来年、60周年の節目を迎える。
明石は1955年に発足した移民村である。琉球政府の移民計画によって大宜味村や読谷村、玉城村などから人々62人が1955年4月12日に移り住んできたのが始まりである。元は「フタナカ」と呼ばれていた地域に明石集落が発足するのである。
初のエイサーは1958年
1967年のエイサーの様子=「明石入植三十周年記念誌 土と共に」129ページ
記念誌編集委員会編「明石入植三十周年記念誌 土と共に」(1985年)に掲載されている年表をたどっていくと、33ページに次のような記述があった。
1958年 青年会で初めてエイサーを始める
移民から3年後のことである。
茅葺小屋の前で
1967年のエイサー。茅葺屋根が見える=「明石入植三十周年記念誌 土と共に」129ページ
読谷村から明石に入植したメンバーのひとり、新里紹栄さん(1931年生)から2013年1月にうかがったところ、「楚辺から5、6人が来て、指導して、三線まで。楚辺のエイサーを習った」とおっしゃっていた。明石でもエイサーを行おうとした移民たちは、読谷村楚辺から指導者を招いてエイサーを習い、それを自分たちの村に根付かせていったというのである。
「土と共に」の129ページには1967年のエイサーの様子が写真で紹介されている。
踊り手たちの素朴な姿は今もそれほど変わらないが、会場の様子はまるで違う。今のようにひろびろとした芝生のスペースがあるわけではなく、民家の軒先である。おそらく、集落の中を一軒一軒まわっていたのであろう。茅葺小屋が写り込んだカットもある。
進化へ模索
出番を終えた子どもエイサーの出演者たち=2016年8月16日、石垣市明石で松田良孝撮影
58年目となったことし、明石のエイサーは、野底地区の「野底つぃんだら祭り」と星野地区の「人魚の里星野夏祭り」とタッグを組み、「北部地域3大夏祭り」として地元の人たちや観光客にアピール。半世紀以上にわたる伝統を土台に、イベントとしての取り組みを強化しようというのだ。
「北部地域3大夏祭り」のポスター
八重山は移民社会である。沖縄本島や宮古、台湾などさまざまな地域からやってきた人たちがいることで、多様な文化を維持している。その一翼を担う明石のエイサーは2年後に〝還暦〟を控え、進化への模索を始めている。