台湾沖縄透かし彫り

沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがあり、かつて石垣島から移り住んでいった人たちと足跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。

 沖縄を歩いていると、台湾のことを感じることがあります。とりわけ、石垣島などの八重山地方では、そのまんまの台湾に出会ってしまうこともあります。では、台湾へ行ったらどうでしょう。やはり、沖縄を感じることがありますし、石垣島の痕跡を見付けることもあります。だけどそれは、薄皮を一枚剥いだようなところに隠れていることがほとんどなのです。深く掘りすぎると、原形をとどめなくなってしまうかもしれませんね。元の姿をとどめつつ、だけど、内側に潜むものもちゃんと見える。そんな透かし彫りの方法で、台湾と沖縄を見ていきましょう。   松田良孝のページ | Facebookページも宣伝

150年でようやくスタート地点に(台湾・牡丹社事件)

 ことしの牡丹社事件150周年について記事を書くに当たり、屏東県政府が2021年に製作したドキュメンタリーフィルム「セバルタン」の全編を、監督を務めた胡皓翔氏のご好意で視聴した。90分の作品のなかで印象に残っているのは、長年、パイワン族の立場から牡丹社事件について調査・発言してきた華阿財さんのご子息が
「戒厳期に原住民が原住民の言葉で話すことができず、口承が十分に行われなかった」
 という趣旨の発言をしていた点だ。

旅先での死

 今回の取材では、宮古島の人から、正常な死ではない場合には、墓を別々にしたり、そのことが語られなかったりすることがあるということをうかがった。牡丹社事件により、台湾で亡くなった場合も、旅先で不幸な死に方をしたことになり、口承が十分に進まなかったというのである。宮古島では、1979年5月の段階で、すでに犠牲者の家族が慰霊団をつくり、台湾・屏東県車城郷にある琉球人墓を訪れている。それならば、島のなかで、事件に対する理解が一定程度広がっていていいはずなのに、実際にはそうなっていない。その理由が、死に対するこの考え方に関係しているのかもしれない。

言い伝えが途切れたのか

 より深刻なのは、パイワン族の人たちと宮古島の人たちという事件の当事者双方が、事件について語られない/語らない期間が相当長くあったということである。事情に違いはあるものの、事件に関する事実やその言い伝え/聞き伝えが途切れてしまっていたのだ。

碑文を比較

 参考までに、石門古戦場(台湾出兵のときに戦闘が行われた場所、屏東県指定史跡。本ブログで使用している写真は、2024年5月22日に行われた史跡指定記念碑の除幕式での一コマです)にある碑の文言について触れておこう。現地には2種類の碑が建っている。
 まず、2000年10月建立の碑には、宮古島の人たちの犠牲について次のように書かれている。
「因誤入牡丹社被山胞殺害」
(あやまって牡丹社に入り込み、原住民に殺害された)
 一方、2024年1月建立の碑の記述は次の通りである。
「發生衝突致54位琉球人身亡」
(衝突が起きて、54人の琉球人が死亡した」
 どちらの表記を支持するかはひとまず措くとして、ニュアンスに違いがあることについて異論はないだろう。碑文の変化は、事件に対する解釈の変化を垣間見せている。

「愛と和平」への心持ち

 牡丹社事件といえば、屏東県牡丹郷と宮古島の双方に設置された紀念碑「愛と和平」が有名である。事件に関する事実が十分に伝わっておらず、解釈が変更されうるとなれば、人々がこの碑に託す「心持ち」も変化しうる。事実は更新され、今後も更新されうるし、事件を書き表す表現も変更されうるのだから。150周年の節目に取材者として立ち合い、あらためて、ここからがスタートだと思わされた。