台湾は昔日本だったから、ある世代以上の台湾の人は日本語がうまい。
かつて、私はこんなふうに考えていたのだけれども、今なら、これは正しくもあり、間違ってもいるということができる。日本時代の台湾で暮らしていた台湾人が、みなさんすべて日本語がお上手であるとは言えない。かつて、日本語がそう流暢ではないままで石垣島に移住し、島の人たちとかかわりながら言葉を使いこなせるようなった人が少なくない。
「台湾語以外話せぬ」
今から70年近く前、石垣島で発行されていた新聞「八重山タイムス」が、ある傷害事件を報じていた。台湾から移り住んできた男性Aが、刃渡り5センチの小刀で沖縄の男性Bを刺し、全治1カ月のけがを負わせたというものである。
記事のなかに次のような部分がある。
被告(=A)は石垣島在住30年以上になるが、台湾語以外話せぬところから判事は通訳を選任して審理を進めたもので、終戦後初の通訳付き裁判と言われる。
控訴事実は「Aは、Bが酔って自宅前を通りかかった際に些細なことから口論となり、持っていた小刀で刺した」というものだが、裁判のなかで、Aは「Bが自宅前を通った際ではなく、私を叩くために住居に侵入したので刺した」と主張している。控訴事実とは事件が起きた場所が異なっており、Aの取り調べは不十分なものだったのではないかと思わされる。おそらくは、コミュニケーションの問題を理由として。
石垣島名蔵湾=2023年7月10日
石垣島で体得した言葉
記事には、Aの実名や年齢が書かれている。石垣島に住んでいた当時の台湾出身者の名簿と照合すると、Aはおそらく、日本統治期に台南州と呼ばれた地域で1890年代に生まれている。そして、記事にある通り、石垣島に30年以上暮らしていたならば、1925年にはすでに石垣島へ移住していたことになる。
2000年代に私が石垣島で台湾出身者を取材した範囲で考えてみても、かつての台湾に日本語で授業を行う学校があったとはいえ、台湾人がみんなちゃんと通って勉強することができたとはいえない。石垣島で暮らすようになってから、島の人たちと交わり、日本語を体得していった人は珍しくない。
台湾と日本語。石垣島と台湾。近いようだが、ちゃんと距離がある。
石垣島屋良部半島=2023年7月10日