リユースの弁当箱
西表島西部の浦内川河口付近からカヌーに乗り込み、支流の宇多良(うたら)川へ向かう前、カヌーステーションで腹ごしらえ。手作り感のある弁当箱を開けると、黒紫米のおにぎりなどがほどよいボリュームで詰めてあり、自然のなかに乗り込んでいく前の高揚感がさらに上がります。環境に配慮するために弁当箱は使い捨てにせず、すべて回収するという説明もあり、亜熱帯の森とどう向き合うべきか、くどくど言われなくてもおのずと理解することができました。
人生を変えてしまった炭坑
2016年6月2日から6日まで実施した八重山台湾ツアーで西表島の宇多良炭坑跡を訪れたのは、1936年に採炭が始まったその炭坑で台湾人坑夫が働いていたことによります。坑夫たちに死を覚悟で逃亡させるほどの過酷な状況だったと言われる厳しい炭坑労働。逃亡の末に実際に死亡したケースもあるとされます。
台湾から宇多良に渡ってきたことで、その後の人生が大きく変転することになったという台湾人もいます。
現在も石垣島で暮らす雲林県出身の芳沢佳代さん(1936年生、台湾名・林全是)は家族で西表島に渡り、両親や兄は宇多良炭坑で働いていましたが、姉が炭坑のトロッコに巻き込まれる事故に遭い、その治療のために石垣島にやってきました。姉は1944年5月に死亡し、家族は台湾へ戻ろうとしたのですが、戦況の悪化で石垣島にとどまることを余儀なくされてそのまま終戦を迎えます。
その後、台湾人の国籍は原則としてそれまでの日本から中華民国に変更されることになったため、知らぬ間に中華民国籍となりました。石垣島は米軍に統治されることになったために、外国人として生活することになったのです。戦争が終わるまでの間は、日本国籍を持つ台湾人として日本の版図である石垣島で暮らしていたのですが、その状態は一変しました。
悲惨な歴史と観光で向き合う方法
このように、西表島の炭鉱は台湾人にさまざまな試練を与えたわけですが、現在は炭坑跡が観光資源として活用されています。宇多良炭坑跡は、レンガを積んで作られたトロッコレールの橋脚にガジュマルが絡みついた景観が独特の雰囲気を醸し出しており、カヌーで亜熱帯の森を楽しみながら上陸し、見学することが可能です。現地では、炭坑にまつわる歴史を説明するガイドも行われており、観光メニューとしての完成度は高いものがあります。
ただ、島の自然をカヌーで楽しむ自然体験のメニューを済ませた後に、炭坑の悲惨な歴史に触れるという構成に難を覚える向きもあり、今回のツアーの参加者のなかには「炭坑の歴史について事前にしっかり伝えておいてほしかった」という要望を出される方もいました。それ相応の心づもりをしてから炭坑跡に行きたかったということです。学校の修学旅行には事前学習というものがありますが、これに当たるものを八重山台湾ツアーのなかではどのように、どこで、どの程度まで行うか。この課題をクリアすることができれば、旅は今まで以上に充実したものになりそうです。